サイババの御言葉

日付:2002年11月19日・行事:レディース デイ・場所:プラシャーンティ ニラヤム
バガヴァン シュリ サティア サイ ババ様による御講話

女性の責任は、子どもの人格を形成することにある

神は 宇宙のすべてのなかで眩く光り輝き
その宇宙は 神に包みこまれている
神と宇宙の間には 親密で分かつことのできない関係が存在している
おお、バーラタの雄々しき息子たちよ
この真理に耳を傾けよ

(テルグー語の詩)

遠い昔より、バーラタ(インド)は友愛と調和の純粋な価値を明示してきました。バーラタは、まさに霊性、美徳、慈善、正義の生誕地です。この国は、平安と繁栄の地です。バーラタの人々は、これらの価値を地球に確立するために、いにしえより真摯な努力を続けてきました。真理を公然と示し、それを伝え広めるにおいて、バーラタに匹敵するような国はどこにもありません。バーラタは、霊性の領域で目覚しい進歩をとげた人々を輩出しています。この国は、ラーマ神が治めた神聖な国です。この国は、まさに、クリシュナ神が『バガヴァッド ギーター』を説いた国です。また、ヴィヤーサ仙が諸ヴェーダや聖典の理念を教え、聖者ヴァールミーキが『ラーマーヤナ』を書き記し、人類に真理と正義の理念を教えた国でもあります。霊性の価値において、バーラタに比する国はありません。バーラタというこの神聖な国に生まれ、バーラティヤ(バーラタ国民)と呼ばれながら、人々は今や、この国が象徴する理想を広め伝える熱意を失いつつあります。バーラタの国民は、自国の文化を尊重し崇敬しなければなりません。その文化を継承し、他の人々に理想を示さなければなりません。

バーラタに吹く風は、真理に満ちています。私たちの足元から立ちあがる埃にさえも、ダルマが溢れています。バーラタ人の人生は、忍耐と呼ぶべきものです。この国を流れるガンジス河は愛で満ち溢れています。真理、正義、平安、愛、非暴力の源泉であるバーラタが、なぜ、このように嘆かわしい状況へと転落してしまったのでしょうか? バーラタ人が、古より偉大な理想を示してきたにもかかわらず、なぜこうなってしまったのでしょうか?

バーラタという神聖な国において 忍耐はまことの美
すべての慣習において 真理への立脚は最も偉大な苦行
この国に生まれる甘露なる思いは
人がその母に寄せる愛のごとき思い

(テルグー語の詩)

この国では、不屈の精神は最も偉大な美徳であり、平安は身を守る盾です。バーラタという国に生まれた私たちが、自らの文化的価値の遺産を維持することができないとは、なんという悲しむべきことでしょうか。若き少年少女たちは、生計を立てるために学ぶべきではなく、この国が古より掲げてきた理想を示し広めるという、ただ一つの目的のために学ぶべきなのです。現代の少年少女たちは、バーラタの伝統と文化を体験し味わうためにではなく、短期的な利益のために学んでいます。

女性が仕事のために家を出てしまうならば 誰が家庭を守るのだろうか?
夫と妻が会社へ出かけてしまうならば 誰が家事をこなすのだろうか?
女性が他人の子どもたちを教えるために外出するならば
誰が彼女の子どもの面倒を見るのだろうか?
女性が男性と同じように仕事に出かけてしまうならば
誰が台所で食事の支度をするのだろうか?
収入を得ることで 経済的な問題は多少なりとも解決するであろう
しかし そのことが 家庭の問題をどのように解決するのだろうか?
女性は ただ幸せを味わうだけの存在ではないようだ

(テルグー語の詩)

今日の女性たちは、教育を受けているがゆえに、仕事をもつにあたって男性と張り合います。仕事に出ることが悪いわけではまったくありません。しかし、仕事をもつ前に、家庭で必要とされていることを果 たさなければなりません。妻と夫が会社に出かけてしまったら、誰が家庭で子どもたちの面 倒を見るというのでしょうか? 母親が、子どもたちを適切に導くために家庭にいなければ、彼らは道に迷ってしまうでしょう。仕事のために両親が家を留守にしてしまえば、金銭への欲望は満たすことができるかもしれませんが、家庭で子どもたちを(しつけ)る者が誰もいないがために、彼らを甘やかしてしまう可能性が十二分にあります。皆さんが学んだ道徳的価値は、どのようなものでも、自分の子どもたちに教えなければなりません。学んだことのすべては、子どもの成長のために用いたときにのみ、価値をもちます。教育は、一人ひとりの内なる可能性を引き出すためにあるのです。

女性は、自らの責任を理解し、それにふさわしい行動を取らなければなりません。この点において、女性によって掲げられた多くの理想があります。昔の多くの女性たちは、自らの美徳を育み理想的な人生を送った、とラジェスワリ パテル(註:「メッセンジャーズ オブ サティア サイ」というサティア サイ女子大学同窓会の会長)は語りました。サーヴィトリーは、その行為において手本とすべき女性です。その当時の女性たちは、家庭での義務を決して放棄しないばかりか、常に、最も理想的なやり方で子どもたちを育てました。彼女たちは、戒めの言葉によってのみならず、実践によって子どもたちを教えました。しかしながら、今日では、そのように理想的な母親を目にすることはなかなかできません。母親たちは、子どもを理想的な市民へと形成していくことよりも、収入を得ることに関心があるのです。子どもを理想的な方法で育てることさえできたならば、母親たちは国家を大いに助けることができるでしょう。自分の子どもが、誰にも(しつけ)られることなく道に迷ってしまうならば、女性が仕事をもち収入を得る意味があるのでしょうか? それゆえ、何にも増して、女性は適切に家庭を守り、子どもたちの面倒を見なければなりません。女性は、家庭の義務を果たすために、十分な時間を捧げなければなりません。今日の教育ある女性たちは、家事をこなすために料理人やメイドを雇います。彼女たちは、自らの収入の多くを使用人の給料に費やします。

チャンドラマティーは、極めて優れた性格をもつ女性でした。彼女は、常に夫のハリスチャンドラ王に従いました。困難にあったときには、彼女はこう語りかけて夫に勇気を与えました。「おお、王様。あなたは大いなる知性をもち、高い教育を受けたお方です。決して、弱さに付け入る隙を与え、定められた道から外れることがあってはなりません。私たちは真理の海を泳いでいるのです。岸辺にたどりつくまで、決意を投げ捨ててはなりません」。このようにして、当時の女性たちは、真理の道に従うようにと、夫を勇気づけたものでした。バーラタの女性たちは、常に我々の神聖な文化を支えてきたのです。シーターは、極めて辛い状況にあってさえ、決して涙を流しませんでした。彼女は悪鬼たちに取り囲まれましたが、決して彼らを恐れませんでした。彼女は、常に夫のラーマ神を憶念し、そのようにして理想を示したのです。同じことがダヤマンティーにも当てはまります。彼女は美徳ある女性でした。彼女は、夫が王国を取り戻すことができるように、固い決意をもって彼を助けました。このようにして、当時の女性たちは、その優れた性格と理想的な母としての役割によって、自らの名声を得たのです。今日の女性は、当時の女性を模範としなければなりません。

人が美徳を通じて得る幸福は、富の所有から引き出される幸福をはるかにしのぐものです。不幸にも、教育ある若者たちは、富や身体的な強さ、友情を請い求めます。しかし、これらのすべては、人格の豊かさなしにはほとんどが価値のないものです。男性にとっても女性にとっても、人格は基盤です。もしも人格的な欠点があれば、人は他のすべての面 で脆弱ぜいじゃくな存在となります。古の人々は、高潔な人格となることを切望しました。彼らは、正義のためであれば、まさに自らの命でさえも犠牲にする用意がありました。女性は、夫の名誉を懸命に守り支えました。個人の強さは、獲得する富の中にあるのではなく、その人格の中にあります。人は、徳高い人生を送るために、あらゆる困難に立ち向かっていく心構えをもつべきです。国は、人格者なる男性、女性が存在しなければ、悲惨な苦境に陥ります。物質的な富は、私たちが今日必要としているものではありません。私たちは、美徳という富を得る必要があります。物質的富は、あなたに真の幸福をもたらすことはできません。

女性は、美徳という富を育み、夫の名誉を守るべきです。男性と女性の双方が共に人格者となるべきです。良い人格をもてなければ、あなたが学ぶすべては不毛なものとなるでしょう。

その教養と知性にもかかわらず 愚かな人間は自らの真の自己を知ろうとしない
 悪い心をもつ人間は その邪悪な性質を手放そうとしない
 現代の教育は 英知ではなく議論にしか到達しない
世俗の教育が あなたを永遠なるものに導くことができないのであれば
それを得ることに何の意味があろう?
あなたを永遠なるものとするための知識を得よ

(テルグー語の詩)

現代の教育は、生計を立てるためにのみ、あなたを助けるものです。この教育は生活のためであり、人生のためになされるものではありません。実際、この教育が、社会における現在の道徳性の衰退の原因なのです。昔は、人々は真理と正義を最優先のものとしていました。彼らは、神の愛を自らの人生そのものであると見なしていました。バーラタの女性たちは、真理のために自らの命を犠牲としました。

バーラタというこの国は 気高い女性を多々生み出してきた
サーヴィトリーは 息絶えた夫を蘇らせ
チャンドラマティーは 真理の力で野火のびをおさめ
シーターは 燃え盛る火の中から火傷もせず現れて 貞節を証明し
ダマヤンティーは 純潔の力で邪悪な狩人を灰に帰した
この 人々の帰依心篤い高潔なる国は このように純潔な女性たちによって
豊かさと繁栄を得て 世界中の国々の師となったのだ

(テルグー語の詩)

古より、バーラタというこの神聖な国は、他の国々に教えをもたらすという高尚な役割を担っていました。バーラタは、カルマ・ブーミ(行為の国)、ティヤーガ・ブーミ(犠牲の国)、ヨーガ・ブーミ(霊性の国)、と称えられてきました。皆さんは、自らの義務を果 たさなければなりません。行為の道に従わなければ、人生において進歩することはできません。

愛の化身の皆さん!
 あなたがたは、意味のないものを追い求めることによって多くの時間を浪費しています。時間の浪費は人生の浪費です。私たちの祖先は、ただの一分さえも、決して時間を無駄にしませんでした。彼らは、神を時間の化身であると見なし、次のように称えました。「時の化身にひれ伏します。時を制するものに、時を越えるものに、時を定めるものに、ひれ伏します」。

あなたがたは、なぜ、時間がまさに神であるという真理を忘れてしまったのですか? 皆さんは、日曜日を、リラックスして楽しむことができると思いつつ待ちわびます。実際のところ、日曜日に何の仕事もしないことによって時間を無駄にしていることを悲しむべきなのです。皆さんは、自分の時間を適切な方法で活用すべきです。仕事が何もないときは、社会奉仕を引き受けなさい。仲間を助けなさい。母国のために、いかなる犠牲をも払う覚悟でいなさい。『バガヴァッド ギーター』は、こう伝えています。「あなたは、行為をする権利をもつが、その結果 への権利はもたない」あなたがたの行為を清めなさい。人々は、プンニャ・カルマ(価値ある行為)とパーパ・カルマ(罪ある行為)について語ります。思いが純粋なとき、行為は聖別 され、仕事は礼拝となります。あなたが時間を適切に用いたときにのみ、人生は意味あるものとなります。カーヤ(身体)は、カルマ(行為)をなすために与えられました。すべてのカルマは、カラナ(原因)とカーラ(時間)に結びついています。カーラ(時間)、カルマ(行為)、カラナ(原因)、カールタヴィヤ(義務)の原理を理解し、それに応じて行動することこそが、人間の主要な義務なのです。これが、バーラタの文化の主な教えです。古より、その教えこそがバーラタを守ってきたのです。

文化とは何でしょうか? あなたは、文化とは生活の方法であると考えています。しかし、そうではないのです。インドの文化は、あなたの生活を理想的なものへと変容させます。今日、インド文化の偉大さを教えることに関心をもつ人々はほとんどいなくなりました。たとえ、教えようとする人がいたとしても、それに耳を傾けようとする人は多くありません。たとえ、その教えを聞いたとしても、それを実践しようとする人はいません。実践を望む人々がいたとしても、彼らは、適切なサポートや励ましを得ることができません。

愛の化身の皆さん!
 あなたがたのすべての行為を、ハートの純粋さをもって行いなさい。純粋なハートなしになされる行為は、不毛です。純粋なハートでなされた仕事は、どんなにささやかなものであれ、実り多きものとなります。

愛の化身の皆さん!
 今日(11月19日)は、「婦人の日」として記念されています。この日にはどのような意味があるのでしょうか? 皆さんは、この日は何か神聖な行いをしたり、スワミの講話を聴いたりするためのものである、などと考えていますが、それだけではありません。あなたは、神聖な態度でこの日を過ごさなければなりません。あなたが今日学ぶことは、あなたの人生にとっての理想となるべきものです。自信を育みなさい。どのような状況のもとであれ、自尊心を保っていなさい。この二つをもたずに人生を送ることに意味があるでしょうか? あなたは、貧しく、弱いかもしれません。不名誉を被ることがあるかもしれません。しかし、常に自尊心をもっていなさい。

アブラハム リンカーンは、どのような状況にあっても自尊心をもって生きました。彼の母は、息子にこう話しました。「人々は、あなたのことを嘲り馬鹿にするかもしれません。そうであっても、決して心を乱してはなりません。常に、自尊心をもって生きるのですよ」。リンカーンは、母の教えに忠実に従いました。家に明りがないとき、彼は街灯の下で勉強をしました。やがて、彼はアメリカの大統領になりました。そのような高い地位を得ることができたのは、ただひたすら、彼に自信と自尊心があったからこそなのです。

母親の教えは、子どもの将来を築くにあたって、極めて重要な役割を果 たします。母親は、子どもから悪い資質を追い払い、真理、正義、平安、愛、非暴力のような人間的価値を彼らに植えつけなければなりません。多くの人々が、日常生活におけるこれらの価値の重要性を長々と語りますが、それらを実践に移している人が、はたしてどれほどいるでしょうか? ほとんどいません。人々は、真実を口にせず、正しい行いもしないのです。私たちの先祖は、どのようなことがあっても、真実と正義の道から決して逸れませんでした。真実に立脚することよりも偉大なダルマは存在しません(サティアナスティー パロ ダルマ)。ヴェーダは、「真実を語り、正義を実践せよ(サッティアム ヴァーダ、ダルマム チャラ)」と教えます。あなたの思いと言葉と行動は、それぞれに調和を保っているべきです。人類が学ぶべきものは人間についてである、と言われます。今日では、人が何を思っているかなどは、誰にも判りません。なぜなら、人の思いと言葉と行動がまったく別のものとなっているからです。そのような非倫理的な態度によって、人は人生を浪費しています。舌は、真実を語るために与えられたのです。

おお舌よ 味覚を知りし者よ! 汝は神聖そのもの
心から楽しげに 真実を語れ
ゴーヴィンダ マーダヴァ ダモーダラと 絶えず神の御名を唱えよ
それが汝の 何にも勝る義務

(サンスクリット語の詩)

神聖な言葉を発するためにある舌は、今や他者を批判するために使われています。そのような人の運命は、言い表すことさえできません。私たちの先祖は、母国への愛がきわめて強かったため、この神聖な国、バーラタに幾度でも生まれ出ることを望みました。しかし、今日の人々は、デーシャビマーナ(母国への愛)のみならず、ダルマビマーナ(正義への愛)ももっていません。そのかわりに、彼らはデーハビマーナ(身体への愛)を強めています。身体は水泡のようなものです。あなたは、どれほど長い間、自分の身体を守ることができるのでしょうか? 身体は、遅かれ早かれ朽ち果 てるのです。それゆえ、アートマビマーナ(真我への愛)を育みなさい。それのみが、世界中を守ることができます。同じアートマがあなたの中にも、すべての他者の中にも存在しているのだ、という信念を育みなさい。そのように強い信念をもつとき、国全体が繁栄するでしょう。真我への愛をもつ者こそが、真の人間なのです。その愛をもたなければ、人の人生は浪費されます。

愛の化身の皆さん!
 11月19日は、とても神聖な日です。私のこの身体の母、グリハム アンマーイ(註:家の娘の意。聖母イーシュワランマを指す)は、すべての人々に愛をこめて話しかけたものです。彼女は、他者の苦痛を見て平然としてはいられませんでした。彼女は、よく2階に上がってきては、私にこのように嘆願しました「スワミ、彼らは悲惨な境遇にあります。彼らを呼んで、話しかけてあげてください」。彼女のハートは同情心で溢れていました。それゆえに、彼女の名声はこれほどにまで広まったのです。良い評判を得るためには、神聖な言葉を口にし、他者を助けなければなりません。

母、イーシュワランマがこのような嘆願をしに来るときはいつも、私は怒ったふりをして、こう言いながら彼女をたしなめました「なぜ、いつもあなたは、私に人を引き合わせようとここにやって来るのですか? 私は、彼らの話を聞くつもりはありません」。しかし、彼女は諦めようとせず、嘆願を続けたものでした。「スワミ、どうか彼らに慈悲をかけてあげてください。あの人たちは、今すぐあなたの助けを必要としているのです。どうぞ一度話しかけてあげてください」。私は、彼女は、なんと慈悲深く、親切な心をもっていることか! と考え、幸せに思いました。

フリ(そこにあるもの) + ダヤ(慈悲) = フリダヤ(心)なのです。慈悲に満ちているものが、フリダヤです。しかし、今日、人間はそのように慈悲に満ちた心をもっていません。人は荒々しい言葉を発し、それゆえに評判を落とします。皆さんは、優しく甘く話すべきです。荒々しく話すことで他者の感情を傷つけてはなりません。

愛の化身の皆さん!
 まず第一に、女性は常に自分の舌に注意を向けていなければなりません。男性は、さまざまな事柄に巻き込まれるため、自分の舌を管理するのが困難であるかもしれません。それゆえ、家庭を精一杯守り、快活であることは、女性の義務なのです。心をこめて客人をもてなし、また、助けを必要としている人々には、可能な限り手を差し伸べなさい。今日の人々は、口先だけのサービスばかりで、それらの言葉を実行に移そうとしません。あなたは、困難にある人々を親身に思いやり、慰めを与えるように努めなければなりません。優しい言葉で、彼らを元気づけて慰めなければなりません。荒々しい言葉で話す者は、まさに悪魔です。あなたが他者の感情を傷つけたならば、あなたはその2倍傷つけられることとなるでしょう。自分の行為の結果からは逃れられないのです。あなたは、その真実を心に留めなければなりません。他者を傷つけないという心構えをもちながら行為するとき、あなたの人生は神聖なものとなります。

人々は、解脱を得ることを切望します。解脱とは何でしょうか? 常に助け、決して傷つけない、これこそが解脱です。執着(モーハ)を取り去ること、それが真実の解脱(モクシャ)です。他者の欠点を探すことをやめなさい。あなたが誰かを非難して指差すとき、三本の指は自分を指差していることに気づきなさい。「真実はまことの首飾り」、「慈善はまことの腕飾り」という言葉があります。あなたの手は、慈善のために働かないのであれば、役に立ちません。あなたは、神聖な行いをすることで、身体の諸機能を聖別しなければなりません。あなたの目は、神聖なものだけを見なければなりません。

あなたは、自分の目にどれほど膨大な力が潜んでいるかを知っているでしょうか? 目の中には、何千万もの光線が存在しています。いにしえの人々は、より良いものを見ることができるようにと、太陽神の恩寵を祈願したものでした。スーリヤ・ナマスカール(太陽神への礼拝)をしてその恩寵を祈るときには、あなたの目の中の光線はよりいっそう光輝を放ちます。一方、あなたが他者の過ちを詮索しているときには、太陽神はあなたの目からその光線を取り払い、あなたを盲目にしてしまいます。それゆえ、神によって与えられた諸器官を正しく用いなさい。

愛の化身の皆さん!
 これらの教えは、日常生活の中で簡単に実践できるものです。教えが単純だからといって、軽く扱ってはなりません。これらの教えは単純なものに思えるかもしれませんが、あなたを解脱に導きます。ものを見るために目を授けられていることは、あなたにとって幸運(アドリシュタム)です。アドリシュタムとは、何でしょうか? ア(できない)+ ドリシュタム(見ること) = 見ることができないもの、という意味です。自らの価値ある行いの結果を見ることはできないかもしれません。しかし、それらは、やがてはあなたにあらゆる幸福と慰めをもたらしてくれるのです。それが、アドリシュタムです。肉眼では見えない多くのものが、あなたの行く先々について来ます。

愛の化身の皆さん!
 バーラタというこの国は、きわめて輝かしい存在です。この国は、あなたにヴィグニャーナ(知性)、スグニャーナ(英知)、プラグニャーナ(至高の英知)という富を授けました。しかし、不運な人々は、それらを受け取ることができません。ウパニシャッドは、マーナヴァ(人間)をいくつかの点において賞賛しています。マーナヴァとは、神聖な者、無限の力を授けられた者、英知をもつ者を意味します。しかし、人間は、自らの名前の意味を理解することができず、誤った道を歩んでいます。あなたの幸福も不幸も、あなたの行為次第なのです。この真実を理解することなく、あなたは悪い行いに浸り込んでいます。その罪の結果 に悩むとき、あなたは悲しみを味わいます。それに何の意味があるでしょうか? まさに最初から、罪を犯さないように注意していなければなりません。神の恩寵を得るために、あらゆる努力をするべきなのです。どのような行為をなすときにも、それを神への捧げ物として行いなさい。そのときにのみ、あなたの人生は神聖なものとなります。あなたが獲得しなければならないのは、現世的な富や慰めではありません。ヴィグニャーナ(知性)、スグニャーナ(英知)、プラグニャーナ(至高の英知)という、永遠にあなたの行く先々について来る富を得なければなりません。そのような、真実で永遠なる富を得たとき、あなたは神の恩寵を獲得することでしょう。

愛の化身の皆さん!
 多くの女性たちが、「婦人の日」を祝うために、11月19日を待ちわびていました。そのように気高い思いをもつことができるのは、あなたにとって実に幸運なことです。否定的な思いはすべて手放し、神聖な感情を育みなさい。模範的な人生を送りなさい。ウパニシャッド(註:ヴェーダ本集に付随する奥義書。ヴェーダの最後部を意味するヴェーダーンタとも呼ばれる)は、人間の人生に大いなる価値を与えました。それに従って生きるべきです。ウパニシャッドは、知識の宝庫です。ヴェーダ(註:古代インドの天啓聖典。リグ・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダという4つの本集<サンヒター>から成る。本集に付随する補足書として、祭儀書<ブラーフマナ>、森林書<アーラニヤカ>、奥義書<ウパニシャッド>がある)には、プルシャ シュクタ(註:リグ・ヴェーダにあるプルシャ讃歌シュクタ)、シュリー・シュクタ(註:リグ・ヴェーダにあるシュリー讃歌シュクタ)などのマントラが記されています。ヴェーダをマスターした人がいたとしても、ウパニシャッドを学ぶことがなければ、そのすべての学びは無駄 になってしまいます。それゆえに、人はヴェーダを学び終えたあとに、ウパニシャッドを学び始めるのです。ウパニシャッドは、あなたをいっそう神へと近づけてくれます。私は、皆さんがウパニシャッドの教えに従い、自分の中にある神の力を顕現させることを望んでいます。あなたがたすべてを祝福し、私の講話を終わります。

(バガヴァンは、「ハリ バジャナ ビナー スッカ シャーンティ ナヒー…」のバジャンをもって、御講話を終えられました)

 

(了)

翻訳、監修:サティア サイ出版協会
出典:http://www.sathyasai.org/discour/2002/d021119.html
((C)Sri Sathya Sai Books & Publications Trust, Prashanthi Nilayam)

<< SSOJ Topページへ << サイババの御言葉メニューへ