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真理、正義、愛、平安が欠けていれば、あなたが受けたすべての教育に価値はありません。
(テルグー語の詩) 愛の化身である皆さん! 一人ひとりの子どもの一生は、両親の質によって大きく左右されます。ジジアバイの愛に満ちた養育のお陰で、シヴァジは偉大な戦士になりました。ラーマの神性は、母親のカウサリヤーの崇高な性質のお陰で花開きました。ラヴァとクシャの双子の兄弟は、崇高で徳の高い母親のシータのお陰で、剛力を備え、また有名になることができました。わが国の聖人賢者たちについても、同じことが言えます。彼らは、両親からの崇高な影響によって、自分たちの人生を神聖化することができたのです。 昔、バーラタの女性の間では、満月の日毎にサティアナーラーヤナ
ヴラタムと呼ばれる儀式を捧げる習慣が、普通に行なわれていました。(スワミの)母親のイーシュワランマも、それにならって満月の日には必ず、隣に住んでいたカラナム
スッバンマと共にサティアナーラーヤナ ヴラタムを行っていました。カラナム
スッバンマはよくイーシュワランマに、「あなたはサティアナーラーヤナ ヴラタムをしているから、神様の祝福によって男の子を授かるでしょう。その子をサティアナーラーヤナと名付けなさい」と言っていました。 その子が生まれる前に、非常に顕著な出来事が起こりました。当時プッタパルティはとても小さな村でした。村の中央に井戸があって、人々はそこから水を 午前3時、縁起のいい時間に、その子は生まれました。誕生のとき、子どもは泣くのが普通
ですが、その子はまったく泣き声を上げませんでした。産婆さんと家の者は、子どもは死んでいるのではないかと心配しました。イーシュワランマも、とても心配しました。彼女は、子どもを泣かそうとして、誰にも気づかれないように、身体をつねりました。ところが反対にその赤ちゃんはニコニコと笑い始めたので、彼女はたいそう驚きました。生まれたばかりの赤ちゃんが微笑んでいるのを見て、誰もが首をかしげました。 母親のイーシュワランマは、愛をもって注意深く子どもの世話をしました。月日が流れて、赤ん坊は少年になりました。この少年は口数が少なく、少ししか食事を食べませんでした。イーシュワランマは、息子の奇妙な行動に当惑しました。子どもたちは普通 食べることを好みます。特に、魚や肉のように、菜食以外の食べ物を好む子どもたちもいます。しかし、彼女の子どもは、菜食以外の食べ物をまったく受けつけませんでした。彼は、魚や肉が料理されている家には近づきませんでした。彼の崇高な性質を見て、イーシュワランマは、息子が普通 の子ではなく、神聖な性質をもった子どもであることに気づきました。彼女の長女のヴェンカンマも、その子の神聖な性質に気づいていました。二人は、協力して、愛を込めて注意深くその子を育てました。彼らは、子守唄代わりに神への賛歌を歌いました。その子は、このような崇高な環境で育ったのです。 プッタパルティには、正規の学校がなかったので、この肉体の兄弟の中で一番上のシェーシャマ
ラージュが、私をウラヴァコンダに連れて行き、そこの学校に入れました。当時のベラリーの町長であったラーマ
ラージュは、シェーシャマ ラージュの友人でした。彼は、休暇中に、私たちをハンピのヴィルパクシャ寺院に連れて行きました。私は寺院に入る気がしませんでした。そこでシェーシャマ
ラージュは私に、一同が寺院の中で神様のダルシャンを受けている間、みんなの持ち物の見張りをしておくようにと言いました。私はすぐにそれを引き受けて、外に残りました。中では僧侶が神像にアルティを捧げていました。彼らは、寺院の至聖所の中の、ヴィルパクシャ神の神像があるべき場所に私が立っていたのを見て、非常に驚きました。シェーシャマ
ラージュは自分の目を信じることができませんでした。実際彼は、私が度の過ぎたいたずらをしていると考えてたいそう怒りました。彼は、私が至聖所に足を踏み入れたことを、私の過ちであると考えました。彼はすぐに寺院から出て来ましたが、そこには私がいたのです! 休暇が終わって、私たちはウラヴァコンダに戻る途中でした。ラーマ ラージュが、お別れの贈り物として、私のところに半ズボンとシャツを持って来ました。しかし、私はそれを受け取りませんでした。当時は、襟にバッジを付けることが流行していました。そのため、ラーマ ラージュは、私がいつも彼のことを覚えておいてくれるようにという祈りを込めて、襟に付ける金のバッジを、私にプレゼントしました。裕福な家庭から来た子どもたちの間では、襟にバッジを付けるのはごく普通 のことでした。襟のバッジは、私がウラヴァコンダの学校に登校する途中で落ちてしまい、どこに行ったかわからなくなりました。そのとき私は、すぐに教科書を放り出して、家に戻りました。私は宣言しました。 私の真の姿はサイであると知りなさい。 (テルグー語の詩) シェーシャマ ラージュは、私がこの詩を歌ったとき、家にいませんでした。あとになって、彼の妻がそのことを話すと、笑って、私が誰かにそれを作ってもらったに違いないと言い、相手にしませんでした。彼は、自分が詩人だったので、私のような小さな子どもがそんなに素晴らしい詩を作ることは不可能だと考えたのです。 税務局員のハヌマンタ ラオは、私に対する素晴らしい愛をもっていました。彼の子どもたちまで私に深く帰依していました。ハヌマンタ ラオは、私の周りで起きていることを知ったとき、すぐに自動車でやって来て、私を自分の家に連れて行きました。彼は、「あなたの兄さんや義理のお姉さんに叱られませんでしたか? 彼らにぶたれたりはしませんでしたか? どうしてあなたは家を出て行くことにしたんですか?」と言って、いろいろと私に尋ねました。私は歌を歌いました。 この世とのつながりは、バッジの形でどこかに行ってしまいました。
(テルグー語の詩) 私は、「世俗的な執着は、私が手放したバッジのようなものです。だから私は家を出たのです。私はもう、あそこには住みません」と言いました。私はハヌマンタ ラオの家にすら入りませんでした。その家の前に大きな岩がありました。私はその岩に座って、誰とも話をしませんでした。私に起きた変化を見て、誰もが仰天して言葉を失いました。夜になると、学校から家に帰る途中のシェーシャマ ラージュが、私を一緒に連れて帰ろうとしました。しかし、家に帰らないという私の決意は揺るぎませんでした。そのとき、ハヌマンタ ラオは、「サティアをあなたと一緒に無理に連れて帰ろうとしないほうがいいですよ。彼に、しばらくここに滞在させてはいかがですか? あとで私が彼をあなたのところに連れて行きますよ」と言って彼を説得しました。 私はしばらくそこに滞在しました。多くの人が私の所にやって来て、「お前はお化けか? それとも魔物なのか? いったいお前は誰なのだ?」などと言って、さまざまな質問をしました。私は彼らに、自分はお化けでも魔物でもない。「私の本当の姿はサイババであると知りなさい」と言いました。彼らは、「お前がサイババであるということを、どうやって信じればいいのか? お前はその言葉を証明することができるのか?」と尋ねました。事実、その当時、アナンタプール地区の人は、サイ ババという名前すら、誰も聞いたことがありませんでした。私は花を何本か手に取って、それを床に投げました。人々が驚いて見ている目の前で、花は床の上に落ちて、ひとりでにテルグー語のサイババという文字の形になりました。誰かがカメラを持って来て、私が岩に座っている写 真を撮りました。私の前に小さな石がありましたが、それは、写真にはシルディ サイ ババの姿に写っていました。その写真は何枚も焼き増しされてみんなに配られました。 その日私が腰掛けた岩は、今でもそこにあります。その場所に、シュリ サティア サイ オーガニゼーションのアンドラ・プラデーシュ州統括世話人のアンジャネイアが、広いホールを持った寺院を建てました。 だんだん私の名声が広まり、さまざまな村や都市から、人々が私の周囲に集まり始めました。悪霊に取り憑かれた人が、牛車で私のいる所に運ばれて来ました。彼らは、私が悪霊を退散させることができると信じていました。精神的に障害のある人々も、私の所に連れて来られました。彼らが信じていた通 り、悪霊は祓われ、患者の精神病は癒されました。すると人々は、私の神性を信じるようになりました。 大勢の人々がやって来るようになったので、シェーシャマ ラージュは、私を彼のもとに置いておくことができなくなりました。そこで彼は、(父親の)ペッダ ヴェンカマ ラージュに手紙を書いて、私をプッタパルティに連れて帰るために、出かけて来てくださいと頼みました。その当時、プッタパルティは非常に辺鄙な村だったので、手紙が届くまで何日もかかっていました。ところが、ペッダ ヴェンカマ ラージュは、市場に買い物に行った先のブッカパトナムで、その手紙を受け取りました。その手紙には、「お父さん、もうこれ以上、サティアを私たちの家に置いておくことはできません。どうかすぐにこちらに来て、彼を連れて帰ってください」と書いてありました。ペッダ ヴェンカマ ラージュは、ブッカパトナムから真っ直ぐウラヴァコンダにやって来ました。彼は十分なお金の持ち合わせがなかったので、シェーシャマ ラージュからバス代を受け取って、私をバスでブッカパトナムまで連れて行きました。その先は交通 の手段がなく、私たちは、プッタパルティまでの長い道のりを歩かなければなりませんでした。実際、プッタパルティという村の名は、近隣地帯を越えた所ではほとんど知られていませんでした。 私たちがプッタパルティに到着すると、この肉体の祖父であるコンダマ ラージュが家にいました。彼は非常に厳格で、深く神を思う人でした。そしてヴェンカマ ラージュに「ヴェンカッパ、この子の好きなようにさせなさい。決してこの子にさからってはならない。この子は神聖な意識に浸っている。しばらくうちに住まわせなさい」と言いました。祖父は私を手元において、愛を込めて注意深く私の世話をしました。 ペッダ ヴェンカマ ラージュと、チンナ ヴェンカマ ラージュ、ヴェンカタラーマ
ラージュ、ヴェンカタ スッバ ラージュの四人の兄弟は、別々に暮らすことにしました。コンダマ
ラージュは、財産を四等分して、彼らに分け与えました。そのとき、ペッダ ヴェンカマ
ラージュは、「お父さんは誰と一緒に暮らすのですか?」と尋ねました。コンダマ
ラージュは「私は誰とも一緒に暮らさない。私は自分の財産はいらない。私には、サティアをくれ。それで十分だ。あの子は私の面
倒を見てくれるだろう」と答えました。その当時、誰も私を、サティアナーラーヤナという正式の名前で呼ぶ人はいませんでした。みんな私を「サティア」と呼んでいました。その日から、私はコンダマ ラージュの家で暮らして、彼に仕えました。 ある日、コンダマ ラージュがヴェンカンマを呼んで言いました。「周りの人々は無知に包まれて生きている。彼らはサティアの神聖な性質に気づくことができないでいる。サティアは、まさに神御自身なのだ。彼は決して空腹を覚えず、決して喉の渇きを訴えることもない。彼は空腹と睡眠を超越しているのだ」 ナマギリアンマというのが、イーシュワランマが両親から授かった本当の名前でした。コンダマ ラージュは、私の神性に気づいたので、息子のペッダ ヴェンカマ ラージュに、彼女の名前をイーシュワランマに変えるようにと言いました。というのも、コンダマ ラージュは、彼女が神の母親であることをよく知っていたからです。 真夜中に、コンダマ ラージュは、よく私の鼻の近くに静かに手を置いて、私が息をしているかどうか調べました。ときには、まったく呼吸を感じることができないこともありました。私からソーハムの音だけが聞こえているのです。人々が私に会うためにコンダマ ラージュの家に押し寄せるようになりました。誰かに尋ねられると、彼らは、「コンダマ ラージュの息子は神の力を持った子どもです。彼は私たちの夢の中に現れて問題を解決してくれます」と答えました。 あるとき、シェーシャマ ラージュが休暇中にプッタパルティを訪れました。彼は多くの人がコンダマ ラージュの家を訪れているのを快く思いませんでした。そのころ、彼は完全に疑っていました。彼はコンダマ ラージュと口論をして、誰も彼の家に入れないようにしなさいと言いました。 その当時、村では教育を受けた人はたいへん尊敬されていました。シェーシャマ ラージュは、教職課程を終了したばかりで、村の人々は、彼を非常に教養のある人物と見ていました。彼はコンダマ ラージュに言いました。「おじいさん。誰もこの子に近づけてはいけませんよ。彼には神の力なんかないのですから。サティアはヒステリー症にかかっているのです」。このように、シェーシャマは私を嘲笑した発言をしていました。 カディリという所に サイは偉大だという評判が、着実にあらゆる所に広まっていきました。人々があまりたくさん押しかけてくるので、家の中に人が入りきれなくなりました。そのとき、ペッダ
ヴェンカマ ラージュは、人々に、毎週木曜日だけ家に来るようにと言いました。しかし人々は、木曜日まで苦しみに耐え続けることはできないと言って抗議しました。すると、スッバンマがヴェンカッパを呼んで、増え続ける人々を彼の家に入れることは現実的に無理なので、私を彼女の家に連れて行って、彼女が、私の世話と、来訪者の世話をしましょうと言いました。 一方、スッバンマにカーストのことで敵対していた人々は、毒を盛ってスワミを亡き者にすることに決めました。そのころの私は、ヴァダ(インドの珍味)がたいへん好物でした。そこで、敵対者たちはいくつかヴァダを作って、その中の数個に強い毒を混ぜました。スッバンマはいつも、彼らの家には行かないようにと、私に警告していました。しかし私は、彼女の反対を押し切って、あらゆる場所に行っていました。このときも私はその家に行って、わざわざ毒入りのヴァダを選んで食べました。この毒殺の試みの結果 は皆さんが知っている通りです。 この種の企てとしてもう一つ、間に合わせで造られた私の家に、敵対者の中の何人かが火をつけたことがあります。家の屋根は茅葺きでした。火が激しく燃えていたので、人々は中にいる私の身に何が起きるか心配しました。それが突然、家の上に豪雨が降り注ぎ、火を消してしまいました。ところが、ほかの場所には、一滴も雨粒が落ちていませんでした。ヴェンカンマと、スッバンマと、イーシュワランマが、泣きながら駆けつけてきました。屋根は完全に燃えてしまい、ようやく壁が立っているだけでした。彼らは壁越しに中を ペヌコンダで、一人の男が、自分はサイ ババの帰依者で、奇跡の力をもっていると言い出しました。そのほかにも、何人かの人が私の着物や身振りを真似て、あちこちを回っては信者を集めようとしました。ただ単に私の名前を使ったり仕草を真似たりするだけでは、いつまでも信者をつなぎ止めておくことはできません。人々は間もなくそのことに気づきました。 この後、私はバンガロールに滞在するようになりました。イーシュワランマとヴェンカンマは、プッタパルティを見捨てないでおくれと私に懇願しました。私は彼らに、決してプッタパルティを見捨てないことを約束しました。マイソールのマハラニ(王妃)を始めとする王族たちが、よくプッタパルティを訪れました。その当時、チトラヴァティ川にはたいていいつも水が流れていました。彼らは水の少ない川床に厚い木の板を置いて応急の道を作り、その上を車で通 りました。地域の身分の高い人も低い人も、信者になる人が増えてきたので、反対者がさまざまな妨害工作をする機会はなくなってしまいました。 すべての偉大な人々は、母親の強い影響によって生まれたのです。子どもたちの偉大さをもたらすものは、母親の崇高な道徳的人格と行動です。ラーマの偉大さをもたらしたのはカウサリヤーの美徳です。同様に、シータが育てたからこそラヴァとクシャは素晴らしい人物に育ちました。このように有徳の母親のお陰で、理想的な子どもたちが育つのです。私は、イーシュワランマに約束してからは、決してプッタパルティを見捨てませんでした。全世界がここに集まってくるかもしれませんが、私がプッタパルティを捨て去ることはありません。アヴァターは、自分が生まれた土地を捨てることはありません。もしここから植物を抜いて別 な場所に植えるとすれば、それはどのくらい生き続けるでしょうか? 木は、種から芽が出た場所で成長するべきです。このような理由から、サティア サイ ババは、根をプッタパルティに留め、プッタパルティを巡礼者の聖地としたのです。ブッカパトナムの高校が建てられたとき、私は、人々から祈りの歌を歌うように頼まれて、バーラタ(インド)の人々の、多様性の中の一体性を強調する詩を創って歌いました。 母性の力は説明できません。母親が、道徳的価値を正しく守り、それに厳しく従うことが、子どもの中の優れた性質として現れるのです。母親は、教育を受けていないかもしれません。彼女らの偉大さは、教育や書物による知識によって決まるのではありません。教育のないイーシュワランマの美徳が、プッタパルティにこのような名声をもたらしたのです。イーシュワランマの息子が褒め称えられているのに、イーシュワランマが忘れられているのは、嘆かわしいことです。イーシュワランマがいなければ、どうしてこのように驚くべき力が生まれることができたでしょうか? 皆さんは、決して両親を粗末にしてはなりません。 このプッタパルティという村の、名前の起こりは何でしょう? それにまつわる不思議な話があります。ヴェヌゴーパラ
スワミ寺院の近くに蟻塚があり、その中に一匹の蛇が住んでいました。牛飼いたちは、毎日、牛を村の外れに連れて行って草を食べさせていました。群れの中の一頭が、毎日蟻塚に行くと、蛇が牛の乳首からミルクを飲んでいました。その牛は、家に帰って来たときには、いつもミルクが出なくなっているのです。牛飼いたちはその理由を突き止めて、蛇を殺す計画を立てました。 私が今日、こうしていろいろお話ししたのは、皆さんに、サイ ババという名前とプッタパルティという名前の意味を知らせたかったからです。プッタパルティには偉大な歴史があります。多くの傑出した人々が、スワミに会うためにこの場所を訪れました。ここには多くの富豪が住み、村に大きな名声をもたらしました。その当時、マイソール州のマハラジャ(藩王)とその母親が、頻繁にこの地を訪れました。そういった多くの身分の高い人々が、プッタパルティの偉大さを知り、この地を深く敬いました。 プッタパルティの神はあなたを常に守護します。 (テルグー語の詩) 愛の化身である皆さん! 学生の皆さん! (バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ…」というバジャンをお歌いになり、御講話をお続けになりました。) (アンジャネイア博士を指差して、スワミはおっしゃいました。)彼はウラヴァコンダにマンディール(神殿)を建てました。そのマンディールには、私が人々に初めて教えを伝えたときに座った岩が祀られています。彼は医学博士号を修めて、仕事をしていました。そして、退職したあとは、スワミへの奉仕に身を捧げることを決意しました。現在彼は、シュリ
サティア サイ セヴァ オーガニゼーションのアンドラ プラデーシュ州の統括世話人をしています。(年配の帰依者を指差しながら)彼は、アンジャネイア博士の義父です。彼もまたウラヴァコンダに住んでいます。彼はスワミのために、特別
に100エーカー(40ヘクタール余り)の土地を確保しています。彼はそこでさまざまな種類の果
物を育てていて、できたものをプッタパルティに送っています。彼は、百歳の誕生日を一年前に済ませました。 (スワミはシュリ ゴパール ラオを壇上にお呼びになりました。) (了)
出典:http://www.sssct.org/Discourses/2003/Birthday.htm |
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(C)Sathya Sai Organization Japan 2003 (C)Sathya Sai Publication 2003 |