サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:2004年1月1日・場所:プラシャーンティニラヤム
元日の 「Love All Serve All」(すべてを愛し、すべてに仕えなさい) に関する御講話@

人への奉仕は神への奉仕

これはブラフマン(神)である、と言うことはできる
しかし、これはブラフマン(神)ではない、と言うことはできない
神はまさしく常に存在しており、この世は実在してはいないのだ
さあ、よく見るがよい!

(テルグー語の詩)

愛の化身である皆さん!
 今日はだれもが年明けをよろこんでいます。意味深いことに、この新年は木曜日から始まりました。一年の特定の日を選び、浮かれ騒いでその日を祝うのは愚かなことです。真の帰依者にとっては毎日が祭日です。それゆえ、一分一分、一日一日を新しいものと考え、喜びをもってそれらを祝うことが肝要です。本当は毎日が元日なのです。

この物質界のものはすべて、永続せず、実在してはいません。ですから、私たちは永遠なる真理と実在を黙想しなければなりません。過去のことをくよくよ考えたり、将来のことを予想したりして、時を無駄 にすべきではありません。今現在を忘れ、未来や過去について思い悩むのはたいへん愚かなことです。実在するのは現在だけです。過去は過ぎてしまったものであり、どんなに祈ってもそれを取り戻すことはできません。未来は時間の胎内に隠れています。未来を目で見ることは不可能です。ですから、現在だけが重要なのです。人々はこの真理に気づくことができずに、過去や未来に悩まされています。

人が第一に取りかかるべき活動、それは人類同胞への奉仕です。それをせずに、人は過去や未来のことを思い悩んで自分の貴重な時間を無駄 にしています。ですから、愛の化身である皆さん! 皆さんは常に人類同胞への奉仕に従事しているべきです。こうした奉仕よりもすばらしいサーダナ(霊性修行)は、ほかにありません。人々は、九つの信愛の道、すなわち、スヴァラナム(神を聞くこと)、キールタナム(神を歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(神の蓮華の御足に仕えること)、ヴァンダナム(神に感謝してひれ伏すこと)、アルチャナム(神に礼拝をささげること)、ダーシャム(神の召し使いとなること)、スネーハム(神との友情を育むこと)、アートマニヴェーダナム(神に全託すること)だけを、救われるための唯一重要な方法であると考え、そうした行為に熱中しています。人々は奉仕の重要性をすっかり忘れています。奉仕の果 実だけは朽ちることがありません。私たちは絶えず他者への奉仕にいそしんでいなければなりません。神はその目的のためにのみ、肉体を授けたのです。肉体は、ただ飲み食いをして価値ある時間を無駄 にするためにあるのではありません。「神が肉体を授けたのは、他者に奉仕し、そうすることで他者を助けるためである」という真理を理解しなければなりません。人類への奉仕にまさるものはありません。人への奉仕は神への奉仕です。すべての偉人たちはただ人類への奉仕によって自らの人生を聖化しました。それゆえ、今すぐにでも人類への奉仕を始めなさい。奉仕は、バジャンやほかのあらゆるサーダナ(霊性修行)よりも大切です。

愛の化身である皆さん!
 皆さんにとって奉仕とは何ですか? 皆さんは困っている人を助けることが奉仕だと思っています。そうではありません。奉仕はそれほど単純なものではありません。皆さんの肉体は絶えず他の人への奉仕に従事しているべきです。人間の肉体は四肢ししから成り立っています。四肢はどれも人類同胞への奉仕を行うべきものであり、それ以外の活動を行うべきものではありません。残念なことに、私たちはこの基本的な事実を忘れています。人間の体に備わっている四肢はどれも、カルモーパーサナ(奉仕を通 して神を礼拝すること)のために神が授けたものです。人生を聖化することのできる方法はカルモーパーサナ(奉仕を通 して神を礼拝すること)だけです。人は寺院を建設しています。さまざまなサーダナ(霊性修行)も行っています。けれども、そうしたサーダナ(霊性修行)が与えてくれるものは一時の満足だけであり、永遠の喜びではありません。いにしえのインドのリシ(聖賢)たちは意識的な努力によって永遠の喜びを得ることができました。それゆえ皆さんも「永遠の喜びを与えてくれるものは人類への奉仕以外にはない」という真理に対する固い信念を抱かねばなりません。苦しむ人類への奉仕に取り掛かりなさい。奉仕は医療奉仕に限ったものではありません。奉仕には人類同胞に対して行うことのできる、あらゆる助力が含まれます。
 バーラタ(インド)のいにしえの文化は、村には今も残存していますが、町や都会では失われてしまいました。実のところ、都会ではあらゆる方法によって私たちの文化が汚されています。それゆえ、村に行き、村人たちが何を必要としているのかを知り、村人たちの苦しみを和らげるような奉仕をしなさい。今、快適さや贅沢ぜいたくを求めて町や都会に移り住む人々がいます。そうして彼らが最後にたどり着くのは悲しみや困難です。こうした結果 は彼らが自分で作り出したものです。「幸せは、幸せからは得られない」――幸せは、苦しみをて初めて得ることができるものです。

皆さんは奉仕に取りかかるべきです。実際、皆さんに手が与えられたのは人類に奉仕するためです。奉仕する手は祈る唇より神聖です。ですから、無私の奉仕を始め、栄光を手に入れなさい。よいことを始めるなら、この世で平安を味わいます。
 今日バジャンを歌った青年たちはサイの学校の卒業生です。彼らはスワミを喜ばせるためにさまざまな奉仕を始めました。神は礼拝やほかのサーダナ(霊性修行)には関心がありません。神は奉仕だけに関心があります。ですから、奉仕をしなさい。もっともっと奉仕をしなさい。神を愛する一番の方法は、すべてを愛し、すべてに仕えることです。神は愛と奉仕だけに関心があります。この二つのサーダナ(霊性修行)の重要性を理解し実行するにまさるサーダナ(霊性修行)はありません。奉仕をするのにたくさんのお金を使う必要はありません。愛のこもった奉仕をして人生を聖化しなさい。
 今日、サティア サイ大学の卒業生が、自分たちの愛と奉仕のしるしとしてスワミにささげようと、48ラックルピー(約1,200万円)の小切手を持ってきました。このお金は、さまざまな苦労を耐え忍び、自分たちの給料からコツコツとめたものです。しかし、実際のところ、このお金はだれのところに行くのがふさわしいでしょう? このお金は村での奉仕に役立たせるべきです。このお金は貧しい人の中でももっとも貧しい人々に奉仕するためのものです。そこで、私は彼らに言いました。「私のいとしい者たちよ! このお金を銀行に預け、その利子を奉仕に使いなさい」と。よい性質を育てるのにお金が手を貸してくれるわけではありません。気高い性質を育てることができるのは犠牲だけです。犠牲のうちにのみ、真のヨーガがあるのです。こういった理由で「犠牲によってのみ人は不滅へと至ることができる」と言われているのです。けれども、今、人々はボーガ(物質的な快適さによる楽しみ)を欲しています。そういったボーガ(物質的な快適さによる楽しみ)は皆さんをローガ(病気)にかからせるだけです。ボーガ(物質的な快適さによる楽しみ)によってヨーガ(神との合一)の境地に至ることはできません。ですから、ティヤーガ(犠牲)によってヨーガ(神との合一)の境地に至るようにしなさい。そうして初めて永遠の喜びを得ることができます。

愛の化身である皆さん!
 犠牲を払うことなく神を憶念しても無駄です。神を憶念すれば、おそらく何らかの精神的満足を得るかもしれません。しかし、それは無駄 なことです。それゆえ、「生類しょうるいすべてに神が浸透している」という真理を固く信じ、それにしたがって行動しなさい。神はすべての生き物に宿り、至福を味わっています。『ウパニシャッド』にはこうあります。「神は一切万物に宿る。全宇宙は神で満ちている」
 神はどこかの神社や建物の中に引きこもっている、という印象を抱いていてはなりません。「肉体は神殿であり、そこに宿るものは神である」と言われています。肉体こそが神の本当の神殿です。神は私たちのハートという神殿に鎮座しています。そういったわけで、ハートにはフリダヤという名称が与えられているのです。フリ(〜のある場所) + ダヤ(慈愛) = フリダヤ(ハート)。ハートに慈愛を育んで初めてあなたは自分のハートをフリダヤと呼ぶことができます。ですから、慈愛の心を育てなさい。いかなる奉仕であれ、慈愛あふれるハートで奉仕したなら、その奉仕は聖化されます。「すべての人は生きた神である」と考えなさい。神はありとあらゆる場所にいます。そうした神の遍在性を忘れ、人はちっぽけで取るに足らない肉体的快楽を渇望しています。けれども実際には、肉体をもって真の幸せを得ることは決してできません。肉体にはさまざまな制限があります。限界のある肉体をもって無限のアーナンダ(至福)を得ることは決してできません。

肉体は五元素から成り、遅かれ早かれ朽ち果てる
しかし、肉体に宿るものには生も死もない
肉体に宿っているもの、それは何にも執着をもたぬ永遠の照覧者
まことを語るなら、アートマの姿をとってそこに宿るもの、それはまさしく神御自身

(テルグ語の詩)

皆さんはそのような神聖アートマを悟ることができなければなりません。今、人は像や写 真を拝み、神はどこか外界にいると思っています。けれども、神はまさしく人間の内にいるのです。そういうわけで、のインドのリシ(聖賢)たちは「神は人の姿をとって化身する」と宣言したのです。
 自分たちの周りにいる命あるものを苦しめながら、一方で目に見えない神を拝むことが何の助けになるでしょう? 皆さんが出会う人はだれもが神の化身です。像や写真を拝むだけで目の前にいる生きた神々をかえりみないようでは、どんな目的も果 たすことはできないでしょう。それゆえ、神を礼拝するのに、そういった間接的な方法にはあまり重きを置かないようにしなさい。あなたの目の前に立っている人たちを神の化身であると考えなさい。あなたの一番の敵と出くわしたときでも、愛をこめて「こんにちは」とあいさつしなさい。その人を兄弟と呼びなさい。そうすれば、その人も「やあ、兄弟」と言ってこたえてくるでしょう。逆に、もしあなたがその人を嫌だと思い、その人に文句を言い始めたなら、その人も同じように返してくるでしょう。
 すべての人を敬いなさい。そうすればあなたも敬われるでしょう。今の人は、他人から敬われることを期待しながら、自分では他人を敬いません。自分では他の人を敬わないで、いったいどうして他の人から敬われることを期待できるでしょう? 「マーナヴァ」(人間)には「敬意を受けるに値する人」という意味があります。皆さんは人間として生まれたのですから、敬意を表し、敬意を受けなさい。これこそが、今、皆さんが培わなければならない性質です。あなたが他者を敬えば、他者もあなたを敬います。皆さんがだれかにプラナーム(合掌がっしょうして敬意を表すお辞儀)をするとき、実際にはそのプラナームはだれに届いているのでしょう? 皆さんは五元素でできている肉体にプラナームをささげているだけではないのです。実際そのプラナームは、ほかのだれでもなく、相手の肉体に宿る神に届いているのです。では、肉体の本質とは何でしょう?

肉体は汚物の巣窟そうくつ、病にかかりやすいもの
肉体は、時とともに変わり行くことを免れない
肉体にはサムサーラ(輪廻りんね)の海を渡ることはできない
肉体は骨で組み立てられたもの以外の何物でもない
おお、心よ! 肉体は永遠であるという迷妄におおわれていてはならない
そうある代わりに、神の蓮華の御足のもとへ逃れるのだ

(テルグ語の詩)

そのような肉体に依存して何を得られるというのでしょう? 皆さんはただ罪を積み重ねるだけです。肉体は他者への奉仕という目的のために維持されるべきです。皆さんは同胞に奉仕するという目的のためだけに人間の体をとっているのです。この真理に対する固い信念をもちなさい。皆さんは肉体を使ってどのような幸せを得るのでしょうか? 実際、得られるものは何もありません。人体の助けを借りてどんな快楽を味わっても、それらはすべて肉体それ自体と同様に、いつの日か一瞬のうちに手放さなければなりません。そうした束の間の快楽のために幾多の試練と苦難に耐えるべきなのでしょうか? 皆さんは人間の体の内に存在するジーヴァ(個々の魂)を敬わなければなりません。それこそが真のダイヴァ セヴァ(神への奉仕)です。皆さんは自分の体をそうした奉仕にささげるべきです。もしそれを行うなら、人生の一瞬一瞬が新鮮で新しく、毎日が祭日となるでしょう。反対に、もし年に一度しか奉仕をしないなら、それは真の奉仕ではありません。デーハ(体)はムリンマーヤ(五元素でできているもの)です。その中に宿っている神はチンマーヤ(神聖意識)です。それゆえ、そのような神を頼みとし、救いを得なさい。

皆さんのだれもがアブラハム・リンカーンを知っていますね。少年時代、リンカーンは裕福な家の息子たちといっしょに学校に通 っていました。少年たちは高価な服や装身具を身に付けていました。一方、リンカーンはお母さんがつくろってくれたり切れた服を着て学校に行かなければなりませんでした。ある日、友人たちがボロボロの服のことでリンカーンをからかいました。リンカーンは自分を抑えることができませんでした。リンカーンはまっすぐに母親のところに行くと、泣きながらこう言いました。「お母さん! ぼくはもう学校には行かない。クラスメイトがぼくをバカにするんだ。その子たちは、まともな服も着られない貧乏人だってぼくをバカにするんだ」すると、母親はやさしくリンカーンを抱きしめ、こう言って慰めました。「いとしい息子よ! そんなつまらないことで悲しむことはありません。そういったことはすべて、将来きっとあなたの役に立つでしょう。いつもこの家の事情を心にとめていなさい。人の言うことをに受けてはなりません。自信と自尊心をもって人生を送りなさい。すべての人を敬い、すべての人から敬われなさい」その日から、リンカーンは母親の助言を実行に移し、すべての人を敬うことを始めました。リンカーンは靴の修理屋に対してさえもこう言って礼儀正しく振る舞いました。「小父おじさん! 小父さんの人生は何と神聖なのでしょう! 小父さんはぼくたちの足がトゲから守られるようにサンダルをつくろうというすばらしい奉仕をしています。そのおかげでぼくたちの足は痛みから守られているのです」
 アブラハム・リンカーンは、次第にそのよい振る舞いによってあらゆる人の敬意を集めるようになりました。リンカーンは独力でとてもよい評判を得るようになりました。その後しばらくして、アメリカで選挙がありました。リンカーンは、友人やリンカーンに好意を寄せる人々から選挙に出るよう説得を受けました。リンカーンは自分が無力であることをこう言い表しました。「私は貧しい人間です。だれが私になど投票するでしょう? 私はそのような地位も権力も欲しくはありません」今インド人は、選挙戦のためには何十万ルピーも費やしながら、貧しい人への施しには1ルピーさえ出すことを拒みます。

母親の善言ぜんげんは、リンカーンの心に消えることのないほど深く刻まれました。リンカーンはすべての人を敬い始めました。リンカーンはだれに対しても礼儀正しく話しました。その結果 、リンカーンはたいへんよい評判を得ました。ついにリンカーンは、友人や支持者たちの願いに屈し、選挙に出馬することとなりました。リンカーンは華々はなばなしい勝利をおさめ、アメリカ合衆国の大統領に選ばれました。そしてリンカーンは母親のもとに行ってこう言いました。「お母さん! 私がこうした高い地位に昇りつめ、アメリカ国民の尊敬を集めることができたのは、子どものころの、お母さんの立派な教訓のおかげです」

子どもが評判や名声を得ることができるのは母親のおかげです。よい評判を得たいと望むなら、母親の言いつけを守るようにしなさい。そういった理由から、ヴェーダ聖典は母親と父親に最高の地位 を与え、「母は神なり。父は神なり」と宣言しているのです。母親は肉体に、父親はアートマ(真我、内なる神)にたとえることができます。それゆえ、私たちは父母を敬わなければなりません。そうすれば多大な尊敬を得ることができます。アブラハム・リンカーンが大いなる名声を得てアメリカの大統領になることができたのは、ひとえにリンカーンが母親を敬ったためです。
 今の子どもたちは何を得ていますか? 何も得てはいません。子どもたちはただ親の稼いだお金を無駄 使いしているだけです。子どもたちは親の評判を悪くしています。そのようなことは子どもに期待されていることではありません。子どもは親から与えられたお金を正しく使うべきです。実際に、皆さんの血液の一滴一滴は両親からの贈りものです。皆さんがこの世に在るのは両親の愛のおかげです。ですから、献血が必要とされているときには、いつでも自分の血を差し出すようにしなさい。そうすることで、親と社会に対する義務を果 たしなさい。決して私利私欲のために働いてはなりません。実のところ、人類をおとしめている主な原因は利己心と利己主義なのです。皆さんはイギリスのかつての首相、ウィンストン・チャーチルのことを聞いたことがあるでしょう。あるときチャーチルは、「人間はすべてを征服したが、自分自身を征服してはいない」と述べました。
 子どもは、よい習慣とよい性質を身につけ、この世でよい地位を得るべきです。そうすることによって親に名誉をもたらすべきです。名誉は、お金によってではなく、立派な人格によって得ることができます。どれほど裕福な人であろうと、人格がすぐれていなければその人の評判は下がります。裕福な人は豪邸に住んで贅沢な暮らしを楽しんでいるかもしれませんが、心の平安と幸福を得ることはないでしょう。人々はもっともっとお金をもうけたいと願っています。しかし、稼いだお金が何の役に立っているでしょうか? 人々は自分のお金をすべて価値のないことに使って無駄にしています。稼いだお金は、社会のためになる有益な活動を行うために使わなければなりません。よい態度とよい習慣をもって行動すべきです。そうして初めて、この世で真の平安を得ることができるでしょう。

愛の化身である皆さん!
 今、だれもが平安を求めて文字通り泣いています。しかし、平安とは何なのでしょう? 平安は皆さん自身の内にあります。皆さんはこの上なく神聖な魂なのです。愛は皆さんの内にあります。平安は皆さんの内にあります。残念なことに、今、皆さんは内にもっている平安や幸福を失い、外界で何かを得たがっています。巨万の富を得て大邸宅を建てたいと願っています。よい性質を備えていなければ、稼いだ富はすべてただのゴミとなります。ですから、よい性質を育みなさい。この世ではよい性質にまさるものはありません。よい性質は、使えば使うほどまるものであり、決して尽きることはありません。

神聖なアートマの化身である皆さん!
 犠牲を払う心構えをしなさい。皆さんは犠牲を通して初めて永遠とわの至福を見つけるでしょう。犠牲を払わない人はどこにも平安を見つけることができないでしょう。世界のあらゆる国々で、人々は「シャーンティ シャーンティ シャーンティ」と唱えて平安を祈っています。しかし、それで人々は平安を得ましたか? いいえ、得てはいません。人は失意と絶望に飲みこまれています。ですから人は、「永遠とわの愛はいつも自分たちとともにある」という真理に対する信念を抱くべきです。自己に内在する神を無視しながら目に見えない神を拝んだところで、いったいどうやって平安が得られるというのでしょう?

愛の化身である皆さん!
 身につけた教養と富を人類同胞と分かち合いなさい。実際には、皆さんが手に入れた富の本当の持ち主は神なのです。皆さんが稼いだお金は「神の信託」のものです。神自身がその信託の頭取です。神を信頼し続けて、皆さんのお金を正しく役立たせなさい。お金やほかの形の財を欲しいと思ってはなりません。常に神を憶念していなさい。神を探して森や山の洞窟どうくつに行く必要はありません。神はいつも皆さんとともにいます。そのことに対する信念を育て、悪魔的性質に打ち勝ちなさい。今、どこを見ても、悪魔のような性質や暴力がはびこっています。人々は恥ずべき手段で富を得ることをためらいません。結局のところ、肉体を離れるときにあなたについて来るものは、あなたの犯した罪や積んだ徳であり、あなたが得た財産ではありません。自分が食べる食べ物を一口だけでも他の人と分かち合いなさい。自らを救い、他の人を救いなさい。それがもっともすぐれたサーダナ(霊性修行)です。実際、実践するのはとても簡単です。皆さんは、この単純なサーダナをわきに追いやり、愛という気高い性質を忘れ、広大な世界に平安を探しに行こうとしています。それは皆さんにしては愚かなことではありませんか?

愛の化身である皆さん!
 愛の心を育みなさい。だれをも嫌ってはなりません。起こることはすべて自分のためだと信じなさい。いついかなる困難や苦しみが降りかかってきたとしても、その原因は自分自身にあります。他の人を敬いなさい。その行為自体があなたを守ってくれるでしょう。反対に、もしだれかを侮辱(ぶじょく)したなら、その行為自体があなたを罰するでしょう。喜びも苦しみもあなた自身が作り出したものです。あなたが積んだ徳や犯した罪は影のようにあなたについてきます。現代人は他人に説教をしながら自分ではその教えを守ってはいません。そのような教えにどんな価値があるというのでしょう? そうしたものはすべて欺瞞ぎまんにすぎません。どんな教えを読もうとも、どんな教えを聞こうとも、それを実践しなければ、その教えが役に立つことは決してありません。少なくとも、小さな形で人類同胞を助けなさい。そうした行為そのものが皆さんを助けてくれるでしょう。自分が遭遇する困難を他人のせいにしてはなりません。決して人をののしってはなりません。すべてを愛しなさい。すべての人を兄弟姉妹として扱いなさい。神が父であり人類は同胞であると感じる心を育てなさい。

愛の化身である皆さん!
 バーラタ人(インド人)は本当に幸運です。バーラタ人は必要なものをすべてを備えています。けれども、愛の心に欠けています。バーラタ人が愛を育みさえするならば、だれもバーラタ人をしのぐことはできないでしょう。それゆえ、愛の心を育むことによって名声と威信を高めなさい。愛をもってサティア(真理)とダルマ(正義)という一対いっついの原則に従いなさい。皆さんを守ることができるのは、ただ愛だけです。

愛の化身である皆さん!
 手は何のために与えられているのでしょう? 口に食べ物を運ぶためですか? いいえ、そうではありません。皆さんはその口で神の栄光を歌わなければなりません。皆さんの手は歌に合わせて手をたたくために与えられています。バーラタ人とは、「バーヴァ」(思い)とラーガ(メロディー)とターラ(リズム)をもって神を拝む人たちのことを言います。また、「バー」はバクティ(信愛)を、「ラ」はラーガ(神への執着)を、「タ」はティヤーガ(犠牲)を象徴しています。皆さんはこうした三つの側面 を併せもって、神の栄光を歌わなければなりません。そうして初めて真のバーラタ人となるのです。バーラタ国に生まれた人はだれもが聖化されます。皆さんに天国はりません。さあ、神の御名を唱えつつセヴァ(奉仕)に参加しましょう。それよりもすばらしい富はあり得ません。そのようにすばらしい富があるとき、どうして苦しむ必要があるでしょう? 皆さんの携わる教育と奉仕のすべてを神の仕事であると考えなさい。ギーターチャーリヤ(クリシュナ神)は「行為のすべてを私にゆだね、私だけをどころとしなさい」と高らかに呼びかけました。それゆえ、すべての行為を神にささげなさい。そうして初めて、皆さんはあらゆる方法で平安を手に入れることができるのです。
(バガヴァンは「プレーマ ムディタ マナセ カホー」のバジャンで御講話を締めくくられました)

 

出典:http://www.sssct.org/Discourses/2004/newyear_04.htm
翻訳:サティア サイ出版協会


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