サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイプレ世界大会用
日付:2004年3月21日・場所:プラシャーンティニラヤム
ウガディ〔テルグ語圏の新年祭〕の 「I am I」(私は私) に関する御講話 @

あなたに内在する神を実感認識しなさい

善悪は共存する
誰にも善悪を引き離すことはできない
しかし、シュラッダー(確固たる信仰)をもつ者は、常に善を体験する
ここに集まった尊い聴衆に、これ以上何を伝えることができようか?

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!

今日は、もう一つの新年の始まりです。多くの新年が過ぎていきましたが、皆さんの古い習慣は相変わらずで、生活は同じままです。その理由は、愛という形をとって万人に存在している神性原理を体験する努力をしていないことです。愛が神の真の姿です。愛という永遠の原理を悟ることは、皆さんの第一の義務です。

自分に生来そなわっている神性を忘れてはならない

今、皆さんは神性を探しています。至るところにいつも存在しているものを探す必要がどこにありますか? 皆さんは、神は常にあなたと共に、あなたの内にいることに気づいておらず、それでも神を探しています。皆さんは瞑想を通して神の姿を見ようとしています。けれども、そのような霊性修行をするだけで満足しているべきではありません。瞑想とは何でしょう? 真理を固く守ることが真の瞑想です。永遠不滅の、素晴らしい、至福に満ちた神性原理は、至るところに存在しています。皆さんはこの真理を悟る努力をすべきです。これは人生のゴールに到達するための王道です。

人々は真理を悟る努力をしていますが、その努力は望ましい結果をもたらしていません。神性は、まさしく永遠の至福の具現であり、私たち皆の中にあります。それはどのようにして視覚化できるでしょう? 第一に、この世に真理より優れたものは存在しないことを理解すべきです。皆さんの一番重要な義務は、自分の中にある真理の原理を認識することです。ところが、皆さんは自分に生来そなわっている神性を忘れつつあります。皆さんは神性を体験するために数多くのサーダナ(霊性修行)に着手しています。実際には、いつもあなたと共に、あなたの中に、あなたの上に、あなたの周りにいる神の姿を見るために、特別なサーダナを行う必要はありません。神を探す必要はないのです。

愛の化身である皆さん!

遍在である神を探し求めるのは無知のしるしです。人々は神性を体験するために、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマーディ〔アシュタンガ ヨーガの八つのステップ〕といったさまざまな霊性修行を行います。

サマーディ〔三昧〕とは何を意味するのでしょう? サマーディはサマ・ディー〔平静な知性〕と称されるべきです。その意味は、あらゆる状況下での平静です。平静な知性は、実はすべての人の内にあります。サーダナをしている人だけがサマーディの状態に到ることができる、と考えるのは誤解です。

愛の化身である皆さん!

皆さんは自分を探して外の世界を歩き回りますか? そのような人は愚か者と呼ばれるだけです。自分を見たいなら、視覚を内に向けるべきです。残念なことに、皆さんは世俗的な見地でさまざまな修行に耽ることで、自分の神聖な真我から離れつつあります。皆さんには神聖な愛の原理が授けられています。神聖な愛は皆さんに本来備わっている性質です。それは行くことも来ることもありません。神性には誕生も死もありません。神性は常に皆さんの中に存在しています。さまざまなサーダナをして時間を過ごす代わりに、「私は私」という真理を悟りなさい。この真理を悟っている人は、どんなサーダナをする必要もありません。その「私」はどこから来たのでしょう? 「私」はあなたの中にいます。このことを実感認識しないまま、皆さんはその神聖な真我を外の世界に探しています。その神性はまさに皆さんの中にあることを悟らなければなりません。けれども、皆さんは幻想のせいで、「私」という原理を自分の体と同一視しています。実際には、「あなた」は体とは別個のものです。この真理を理解し、それ相応に行動すべきです。神が自分の内にいると悟る者こそ、真のサーダカ〔求道者〕です。人々の中には、人目につかない所に座って目を閉じて、神性を黙想しようとする者もいます。いつも自分に付いている自分の影を探す必要はありません。それと同じように、皆さんが外界で探している神性は、まさしく皆さんの中にあるのです。

さまざまな人がクリシュナ神の真の性質を推測するために努力し、その際に多様なサーダナに着手しました。けれども、結局、誰一人としてクリシュナ タットワ(クリシュナ原理)を悟ることはできませんでした。実際、クリシュナはどこにいるのでしょう? 神はどこにいるのでしょう? 神は人の真我の中にいます。この真理を悟ることができずに外の世界に神を探し回る人は、無知な人です。あるとき、クリシュナがアルジュナに言いました。

「私は君のものであり、君は私のものだ。君と私は一つなのだ」

この一体性を悟ることなく、神を外の世界に探すのは愚かなことです。先ほどスピーチをした青年は、神の姿を見るためにサーダナをしていたと話しました。どこか人目につかない離れた場所で神を探す必要はありません。

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ スィロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ

(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)

〔バガヴァッドギーター13章13節〕)

神は至るところに存在しているというのに、どこに神を探す必要がありますか? 皆さんが見るものは何であれ、神が浸透しています。神が存在していない場所や姿形はありません。

神は愛、愛は神
愛を通してのみ、神とつながることができる
愛を育て、平静という至高の境地に到達しなさい

(テルグ語の詩)

それゆえ、自分から離れての神探しに従事する必要はありません。神は真理として至るところに存在しています。なぜ、そのような真理を探す必要などあるでしょう? クリシュナ神はどこそこで生まれ、どこそこで肉体を脱ぎ捨てた、と誤解している人々もいます。これはいけません! これは正しい概念ではありません。クリシュナは常にあらゆる場所に存在しています。この物質界の中であなたが何を見ようとも、誰に出くわそうとも、それはまさしくクリシュナ神の姿なのです。名前が変わるだけで、神は一つです。そのような遍在の神を探し求めるのは愚かなことです。外に神を探す代わりに、自分に内在する神を実感認識するよう努めなさい。自分の中で、自分は誰かを探しなさい。肉体意識は脇へ置いておきなさい。自分を体と同一視してはなりません。「私」と「あなた」という問題が起こるのは、自分を体と同一視しているときだけです。「私」と「あなた」が一つに融合すれば、一体性が生じます。しかし、不幸なことに、現代の人々は利己的な「私」を忘れられずにいます。どこを見ても、「私」の原理〔アートマタットワ〕があるのみであり、それはすべてに存在しています。ひとたび、同一のアートマ〔真我〕がすべての人の体に遍満していることを実感認識すれば、「私」と「あなた」の違いは消え去ります。ところが、皆さんは体との偽りの同一視を手放すことができずにいます。生まれたときから自分を体と同一視することに慣れてしまっているのです。

「私」の原理はすべての基盤

愛の化身である皆さん!

愛であれ、真理であれ、平安であれ、神性であれ、そこに二元性は存在していません。それらはすべて一つです。一体性の精神を強化したときにのみ、皆さんは真理を悟ることができるでしょう。愛は外側から得られるものではありません。愛は内側からわき上がってくるものです。そのような愛をすべての人に分け与えれば、すべては一つという真理を悟ることができるでしょう。

(ここでバガヴァンはご自分のハンカチを見せながら、次のようにおっしゃいました)

これは糸でできていて、同様に、糸は木綿でできています。それと同じように、心〔マインド、マナス〕もサンカルパとヴィカルパ(決意と逸脱)という糸でできています。

愛の化身である皆さん!

皆さんは、すべての中に均一に存在している愛の原理を自分はどの程度まで理解しているか、自問しなければなりません。相違は私たちの知覚と感情のゆえに生じます。人間は最初から体との同一視に心を奪われており、そのせいで万物に多様性を知覚するのです。実際、多様に見えるものの中にしみ込んでいるのは、一体性のみです。どのような相違があろうとも、それは心の創造物にすぎません。もし、そうした相違を取り除いて多様性の中の一体性を悟りたいなら、自分の本性を悟らなければなりません。一体性という事実から知覚を逸らしていると、多様性を体験します。ですから、自分の認識能力を一体性の原理に向けなさい。私はこの体ではなく、私は私であり、同一の私がすべての人の中に存在しています。皆さんが私をこの体の姿と同一視するなら、皆さんと私は別々になります。感情におけるこうした相違こそが、人と人の間の相違を作り出しているのです。「私」の原理は、すべての生きものの中に存在する唯一の基盤をなす原理です。個々人は鏡のようなものであり、同一の「私」が万人の中に映し出されているのです。鏡はそれぞれ異なりますが、映っているものは同じです。皆さんはこの一体性の事実を悟らなければなりません。

愛の化身である皆さん、

学生の皆さん! 神に特定の姿はありません。すべての姿は神の姿です。しかし、賢者たちはさまざまに神性を描写しています。そのために、

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし賢者はそれをさまざまな名前で呼ぶ)

〔リグヴェーダ1巻164讃歌16節の一部〕

と言われているのです。一体性を多様性として見るのは誤解です。この誤解はマーヤー(幻想)から生じます。真実は、至るところに存在するのは一体性のみであり、多様性ではないということです。あなたが多様性として目に留めてきたものは、あなたの幻想にすぎません。多様性は忘れて、神性すなわち一体性を黙想しなさい。神性をどのような名と姿に見なしてもかまいませんが、神はただ一つです。あるとき、クリシュナの最も熱烈な信者であったラーダーは、アートマの観点からすればクリシュナと自分は一つの姿であること悟りました。けれども、ラーダーはデーハ バーヴァ(体への執着)のせいで、その感情から滑り落ち、自分をクリシュナとは異なる者と見なしました。

愛の化身である皆さん!

何を見ようと、誰に出くわそうと、すべての姿を神の顕現に他ならないものと見なしなさい。「私」と「あなた」という相違に付け入る隙を与えてはなりません。神の創造物の中に何を見ようとも、すべては反動、反映、反響です。皆さんは鏡をのぞき込み、自分は鏡の中にいると言います。実際は、あなたは鏡の中にはいません。鏡の中に見えるのはあなたの反映にすぎません。山の向こうに行って「おーい!」と叫べば、すぐさま同じ大声で誰かが叫び返してくることに気づくでしょう。実のところ、その声は他の誰のものでもなく、あなたの声にすぎません。このように、今日、人は誤った印象に耽っています。外で見るものは何であれ、自分の内なる存在の反映にすぎません。皆さんは一体性を多様性と見なして過ちを犯しています。不幸なことに、今、人々は自分自身の本性を理解することができずにいます。

あるとき、牛飼いの少年が、牧草を食ませるために自分の牛を森へ連れて行きました。牛たちが草を食んでいる間、少年は大きな声で歌い始めました。その歌声は山にこだまして返ってきました。その無邪気な少年は、誰かが自分をからかっているのだと考えて、腹を立てました。家に帰ると、少年はその出来事について母親に不平をこぼしました。

「母さん! 明日は牛を森に連れて行かないよ。あの森には、僕が何を歌っても真似をしてからかうやつがいるんだ。僕はあいつが嫌いなんだ」

母親は、明日は自分が森へついて行くからと言いました。少年は母親を裏山に連れて行き、大きな声で歌い始めました。またしても、歌の反響が聞こえてきました。すると母親は言いました。

「息子や、誰かがからかって、おまえの歌を繰り返しているのではないのだよ。おまえが何を歌っても、そのこだまが聞こえるのです」

この愚かな牛飼いの少年のように、現代人は、反映と反動と反響に押し流されているのです。

もし神を見たいなら、自分は体ではないことを固く信じなくてはなりません。自分を体と同一視することは、まさに幻想です。学生たちはこのことを明瞭に理解しようと努めるべきです。外側に見えるものはすべて単なる反映であり、実体ではありません。皆さんはサイ ババを目の前に見ています。皆さんはサイ ババを体と同一視しています。けれども、私は体ではありません。私と皆さんは一つです。いったんこの真理をはっきりと理解すれば、どんな相違もなくなるでしょう。もし誰かの頬を叩くなら、それは自分を叩いていることになります。もし他人を罵倒するなら、それは自分を罵倒しているのです。あなたは必ずや自分の行為の結果に直面することになります。あなたの苦楽の原因はあなたです。他人にはそれに対する責任はありません。実際、他人などいないのです。すべての人は一つです。どうしてそう言えるのでしょう? たとえば、五千個のラッドゥー〔インドのお菓子〕を用意して人々に配ったとします。ラッドゥーはさまざまかもしれませんが、どのラッドウーでも砂糖は同じです。同様に、同一のアートマの原理が万人に存在しているのです。自分の真の実体を理解するよう努力すべきです。皆さんはまさしく愛の化身です。愛の原理は万人において同一です。皆さんは、自分の子どもや両親や伴侶に愛を分け与えます。相手に向ける感情はそれぞれ違っても、基盤である愛の原理は同じです。基盤をなす真理はアートマです。それは唯一無二です。

神性アートマの化身である皆さん!

アートマは二つではなく、一つです。ひとたび、同一のアートマが万人の内に存在するという真理を認識すれば、あなたはあらゆる相違と論争から解放されます。「あなた」はすべての中に存在していることを固く信じなさい。この一体性の原理を理解しなさい。学生たちは皆、私への計り知れないほどの大きな愛を抱いています。学生たちはババが自分たちを愛しているので幸福です。すべてを愛しているのはババだけであることを理解しなさい。皆さんは個々人の中に相違を見ますが、私の見方では、すべては一つです。私と皆さんは一つです。この一体性を固く信じなさい。そうして初めて、二元性を超越することができるのです。深く探求すれば、この真理を理解することができるでしょう。忍耐しなさい。神の姿を見ることができないからといって、がっかりしてはなりません。一体性の原理を理解し、しっかりとそれにしがみつくなら、あなた自身がサイ ババになります。あなたはディヴァイン、神です。けれども、皆さんは世俗の欲望という「ディープワイン、強いお酒」に酔いしれて、それを悟ることができずにいるのです。すべては神の具現です。私は皆さんと違わず、皆さんも私と違いません。私たちは一つです。この一体性を理解して体験しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.37 C6

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