サイババの御言葉

日付:2006年2月26日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワントホール
マハー シヴァラートリーの御講話

世界は神の愛の顕れです

宇宙の隅々にまで浸透している御方のために寺院を建てることは可能だろうか?
すべてのものに内在する御方に名前をつけることができる者がいるだろうか?
すべての河に存在する御方を沐浴(もくよく)させることができるだろうか?
腹の中に全宇宙をまるごと持っている御方に食事を捧げることができる者がいるだろうか?
人は無知と迷妄のために、実に全宇宙の主である、宇宙的な存在の真実を知ることができない。

(テルグ語の詩)

目に見える世界はパンチャ ブータ(五大元素)から成り立っているので、プラパンチャという名で呼ばれています。「プラ」とは、「現れる」とか、「表現する」という意味です。ですから、プラパンチャとは、五大元素、すなわち(くう)、風、火、水、地を顕す者のことです。人間においては、これらの五大元素は、それぞれ、話し言葉、触覚、姿、味、匂い(シャブダ、スパルシャ、ルーパ、ラサ、ガンダ)に関係する感覚を代表しています。

ブラフマン(神)は五大元素に浸透している

プラパンチャは、プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ 、サマーナから成る、パンチャ プラーナ(五つの生気)の顕れでもあります。ですから、五大元素と五つの生気が一緒になって、全世界の基礎を形作っているのです。ブラフマタットワ(ブラフマンの原理)は、すべての五大元素の中に存在します。それは永遠にして不滅です。ブラフマンは、パンチャブータ(五大元素)と、パンチャ コーシャ(魂の五つの鞘)と、パンチャ プラーナ(五つの生気)に充満しています。ところが、無知ゆえに、人はブラフマンが特定の姿をもっていると考えます。名前と形は一時的なものです。すべての名前と形の基盤であるブラフマタットワだけが、ただ一つの永続する実在です。私たちは、無知と視野の狭さのために、このようなブラフマンの広大無辺の原理を、小さな姿に限定して、それを崇拝しています。私たちは神の広大無辺の姿を崇拝するべきです。宇宙は神の姿そのものです。ブラフマンはアンダ(地上界)と、ピンダ(天上界)と、ブラフマンダ(宇宙)に充満しています。アンダは、パダルタ(物質)とプラーナ(生気)が組み合わさったものです。アンダとピンダは、究極的にブラフマンダと一つになります。

愛の化身である皆さん!
 プレーマ(愛)は宇宙の基礎です。プレーマなくしてはプラクリティ(自然)もプラパンチャ(世界)もありません。世界は五大元素の中に均一に存在する愛の原理によって支えられています。もし、あなたが愛の原理を忘れたなら、どのような形の崇拝も、無益なものとなります。
 人の生命と世界全体は、五大元素のおかげで維持されています。五大元素のどれか一つでも欠けていれば、すべてが無に帰してしまいます。私たちは耳で音を聞きます。目で世界を見ます。このように、私たちは五感を通 して世界を体験することができます。五感を機能させているのは神の力です。しかし、人はこの神の原理を忘れてしまい、取るに足りないこの世的なものを追いかけることによって幸福を得ようとします。「Jantunam Nara Janma Durlabham」(すべての生物の中で、人として生まれることはもっとも(まれ)なことである)と言われています。実際、人間は本質的には神なのです。

神は永遠の照覧者

ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)は、人生の四つの到達点と定められています。しかし、今日、人はダルマとモークシャをあきらめて、アルタとカーマを追いかけています。神はこの世界を創造しました。あなたの妻子も、また、友人や敵さえも、すべては神によって創造されました。彼らは皆、まことに神の化身そのものにほかなりません。すべての人の内にブラフマンを見ることができるようになるべきです。それこそが、あなたの最大の務めです。時には、神でさえ敵と戦わなければなりません。しかし、敵たちは、神に対して敵意を抱いているにもかかわらず、神の恩寵のおかげで最終的には神と一体化します。この世の中で神が存在していない場所はありません。神はあらゆる場所に存在しています。「Sarvatah Panipadam Tat Sarvathokshi Siromukham, Sarvatah Sruthimalloke Sarvamavruthya Tishthati」(手、足、目、頭、口、耳をもって、神はすべてに浸透している。神は全宇宙に満ちみちている。)

周りの人々は、あなたが何をしているか見ることができないかもしれませんが、神はあなたを見ています。他の人はあなたが話す言葉を聞かないかもしれませんが、神は聞いています。神は永遠の照覧者です。残念なことに、あなたはこの真理に気づくことができません。「私たちが実際に神を見ることができないのに、どうして神はどこにでも存在すると言えるのですか? 神はどのようにして私たちの祈りを聞くことができるのですか?」と言う人がいるかもしれません。事実、音は神の姿そのものです。音のない所はどこにもありません。音は神自身の姿であるために、神はすべてを聞くことができます。光そのものが神の視覚であるために、神はこの世界のすべてを見ることができるのです。ですから、神は何が起きているかを知らないという誤った考えは、絶対に抱いてはなりません。神が目に見えないからといって、神の存在を疑ったり、否定したりしてはなりません。サンカルパ(思い)はどのようにしてあなたの心の中に生じるのでしょうか? それは神の意志によって起きるのです。変化は世界の中だけに起きることです。神の原理はつねに変わることがありません。

ローカ(世界)とローケーシャ(神、世界の主)は切り離すことができません。被造物(宇宙)と創造主は一つです。この二つの間には、親密で切り離すことのできない関係があります。アートマとは神の原理に与えられた名前です。それには特定な形はありません。アートマが特性の姿をもっていると考えるのは重大な過ちです。アートマが一つであることを理解しそれを体験することは、とても重要なことです。すべては神です。まことに、「目に見えるものはすべてがブラフマン」(Sarvam Khalvaidam Brahma)なのです。皆さんは、神の原理を完全に理解することができないために、神を、ラーマ、クリシュナ、ヴィシュヌ等々、特定の名前と姿に限定して、礼拝しています。陶工はラーマやクリシュナ等の像を造ります。しかし、そうしたさまざまな神の姿を取るのは、ただの粘土です。同じ粘土がさまざまな姿に形作られるのです。

宝飾品はたくさんあるが黄金は一つ
牛はたくさんいるが牛乳は一つ
生き物はたくさんいるが息吹は一つ

(テルグ語の詩)

皆さんは、一体性の原理を理解できないために、外見上の多様性によって惑わされています。

真の幸せとは、神と一つになること

愛の化身である皆さん!
 だれも神はこういう姿をしているとか、ああいう姿をしているなどと説明することはできません。神は宇宙全体に浸透しています。名前がなければ姿もありません。そしてその逆もまたしかりです。神の原理は、いかなる名前や姿によっても表すことはできません。この宇宙のすべての物質とすべての生き物は神の愛の顕れです。ですから、この世界を単に物質的な観点だけから見てはいけません。世界は神の姿そのものであり、神の愛の顕れであると考えなさい。皆さんは、理解力が限られているために、このようにすべてに浸透している神の原理を、一つの名前と姿に限定するのです。「感じ方に従って結果 がある」(Yad Bhavam Tad Bhavathi)のです。神は、神に対するあなたの感じ方通 りに反応します。もし、あなたが完璧な帰依心をもち、心の底から神を愛していれば、神は完璧な至福をあなたに与えるでしょう。神は、生死や苦楽のような二元性を超越しています。あなたは神にさえ痛みや苦しみはあると考えるかもしれません。しかし、神の目から見ると、痛みはまったく存在していないのです! これは神の一側面です。至福もまた神の一側面です。神は楽しみも苦しみも、美徳も罪も超越しています。幸せや苦しみはあなた自身の作ったものです。楽しみとは苦痛と苦痛の合い間のことです。

神はほかから離れた別個の存在ではありません。残念ながら、人には神の原理を理解することができません。ですから人々は、あらゆる種類の妄想を抱いて苦しむのです。神は一つです。「真理は一つだが、賢者たちはさまざまな名前でそれを呼ぶ」(Ekam Sath Viprah Bahudha Vadanti)のです。しかしながら、状況によって必要となれば、神の化身が地球上に降臨して、宇宙のドラマの中で一役を演じます。

ドラウパディーが王宮でドゥリヨーダナとドゥシャーサナに辱められようとしていたとき、ビーマは兄弟たちに、もうこれ以上この所行には耐えられない、二人を殺してやりたいと言いました。しかし、このような状況においてさえ、神は二人を殺そうとはしませんでした。すべては神の意志によって起きるのだということを理解するのは、非常に大事なことです。何が起きようとも、それはあなた自身にとって有益なこととして起きているのです。このような確固たる信念とともに、苦と楽、善と悪とを、平常心をもって受け入れるべきです。あなたにとって不幸に耐えることは困難かもしれません。あなたは困難に耐えることを助けてくれる儀式や礼拝を行います。今日は困難を抱えているかもしれませんが、明日になると状況は変わるでしょう。困難は永遠に続くわけではありません。困難は必ず幸せに道を譲ります。人はつねに幸せを求めて努力します。どうすれば幸せを得ることができるのでしょう? 幸せとは、神と一つになることです。あなたは、この一体性を獲得したときに、初めて真の幸せを体験することができるのです。あなたが何を神に頼もうとも、神は、「Tathastu」(そのようになるように!)と言います。ひとたび神の原理を理解すれば、あなたは悲しみから解放されます。たとえあなたが困難のさなかにあるとしても、決して落胆してはいけません。神がそうした厳しい試練を与えているのは、あなたにとって有益なことであるためと信じなさい。幸せと悲しみは共存しています。困難を経なければ幸せを得ることはできません。

よこしまな性質を捨てなさい

愛の化身である皆さん!
 多様性の原因を神に求めてはなりません。すべての人が神の化身であると考えなさい。このような神聖な感覚を心の中にしっかりと刻み付けなさい。あなたを憎んでいる人でさえ、自分にとって大切な人として扱いなさい。人間として生まれることができたからには、勇気と不屈の精神をもって、痛みにも苦悩にも耐えることができるはずです。それらは自分にとって有益なことだという確信をもちなさい。神が創造したものはすべて善です。神の創造した宇宙は、すべてが善で神聖です。苦悩や不幸の原因となるものは、何一つ存在しません。実際、不幸は人の妄想から生まれます。妄想の原因は人間が自分と肉体とを同一視することにあります。Manava(マーナヴァ/人間)という言葉の意味は何でしょう? 「Ma(マ)」はマーヤー(迷妄)を意味します。「Na(ナ)」は「…がない」という意味であり、「Va(ヴァ)」はVarthinchuta(ヴァルティンチュタ/振る舞う)という意味です。したがって、マーナヴァとは、マーヤーなしで振る舞う者のことです。もし、あなたがマーヤーの餌食となってしまったなら、絶対にMarmamu(マルマム、実在)を理解することはできません。事実、自分自身が自らの迷妄(マーヤー)を引き起こしているのです。妄想は、自分自身の想像の中から生まれます。俳優は、映画の役どころの要求に応じて、愛、怒り、幸せといったさまざまな感情を表現します。しかし、これらはすべて俳優の想像力の表現です。これと同じように、人が経験する幸せや苦しみは、その人の迷妄の結果 なのです。

人間がどれだけ努力しても、神の全体像を知ることは不可能です。あるとき、クンティー(パーンダヴァ兄弟の母親)はクリシュナに向かって、「おおクリシュナ様! あなたは神ですが、私たちは時々、あなたも私たちと同じ人間ではないかという思いに惑わされます」と言いました。聖賢ティヤーガラージャもまた、次のような詩の中で、それと同じ気持ちを表しました。

おお神様! あなたはドラウパディーの祈りに答えて屈辱からお救いになりました。
あなたは醜いクブジャを美しい女性にお変えになりました。
あなたはパンダーヴァ兄弟を保護なさいました。
あなたの栄光と輝きを推し量ることができるでしょうか?
あなたはすべての説明や人間の理解の限界を超えていらっしゃいます。
クリシュナ様、たとえ創造の神ブラフマーであろうとも、
あなたの栄光を言い表すことはできません。

(テルグ語の詩)

善と悪はあなたの心の中にあります。外にあるのではありません。ですから、第一にあなたの感情を正しなさい。あなたの中に人間性が花開くことができるように、すべての動物的な性質を捨て去りなさい。もし、自分の中にほんの少しの憎しみでも見いだしたときは、すぐに追い出してしまいなさい。人間として生まれることができたからには、憎しみのような悪魔的な資質を心に抱くことは人間として恥ずかしいことです。神以外のものに心を奪われるようなことがあってはなりません。ほかの何ものでもなく、ただ神だけに()かれるべきです。あなたは自分の息子を愛していますが、それは息子が自分の反映だと思うからです。実は、あなたを愛する者、あなたを憎む者、あなたを批判する者等々、すべての人はあなた自身の反映です。ある時には、だれかがあなたに怒っているかもしれません。しかし、あとになって、その怒りの代わりに愛が生まれるかもしれません。人々は心の気まぐれに翻弄されています。名前と姿に惑わされていると、移ろい行くこの世の特質を理解することはできません。実を言えば、あなたには友だちも敵もありません。それは、あなたの愛や憎しみが外面 に反映しているだけなのです。神は幸せも悲しみも与えません。幸せも悲しみもあなた自身の創造物なのです。それらはあなたから始まります。

一体性という神の原理を理解しなさい

愛の化身である皆さん!
 神は、五大元素という形であらゆる所に存在しています。すべての人に五大元素が与えられており、すべての人は愛の化身です。すべては一つです。(唯一者以外の)二つ目の存在というものはありません。どこを見ても五大元素があります。六つ目の元素はどこを探してもありません。あなたに内在する愛の原理は、Easwaratwa(イーシュワラットワ)とBrahmatwa(ブラフマットワ/神の原理)を象徴しています。ブラフマン(神)があなたと別 個に存在すると考えるのは、単なるBhramaブラーマ(思い違い)です。すべてはブラフマンです。すべてはアートマとアーナンダ(至福)の顕れです。「Nityanandam, Paramasukhadam, Kevalam Jnanamurtim」(神は永遠の至福の体現者である。神は絶対の英知である)といって、神が褒め称えられるのはそのためです。あなたの行う行動(カルマ)さえも、ブラフマンの現れです。このような神聖な感覚で行動に携われば、よい結果 が生まれます。決して神を批判してはなりません。決して神を否定してはなりません。すべてはブラフマー(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、マヘーシュワラ(破壊の神)の顕れです。すべては神です。これが、シヴァラートリーというこの吉祥の日に、皆さんが学ばなければならないことです。この世の中には神でないものは何もありません。一粒の砂の中に存在する神の原理と、大きなラッドゥー(ピンポン玉 大のインドのお菓子)の中に存在する神の原理は同じものであって、何の違いもありません。ひとたびこの真理に気がつけば、あなた自身がブラフマン(神)になります。あなたは、ほかのどこにも神を探す必要はありません。あなたは創造の神ブラフマーであり、維持の神ヴィシュヌであり、破壊の神シヴァであって、まさに三大神の化身そのものです。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの姿をとるのは、あなたの感情にほかならないのです。

ある時、あなたはだれかに対して怒りを覚えるかもしれません。しかし、別 な時には愛を感じます。実際、愛も怒りもあなたの感情の表現です。あなたは二元性に基づいた感情のために、不安や苦悩から逃れられないのです。あなたは多様性の中に一体性を見る代わりに、一体性を多様性ととらえています。1という数字はほかのすべての数字の基盤です。同様に、名前と姿はさまざまですが、すべては本質的に一つです。この世の中には、神以外に存在しているものはありません。多くの霊的求道者やヨーギが、神の原理を理解するために懸命に努力をしてきました。最終的に、彼らは真理は一つだが学者たちがそれをさまざまな名前で呼んでいるのだということを悟りました。皆さんはまだこの真理を理解していないので、外見上の二元性に惑わされています。神が一つであるという原理を知るためには、霊的数学を理解する必要があります。このワンネス(単一性、すべてがひとつであること)の原理を理解し、それに基づいて振る舞うことは、もっとも大切なことです。あなたとあなたの影は異なった二つのものではありません。それらは本質的に一つです。この単一性を理解するとき、あなたは神を体験します。あなたは、個々の存在は神と何の変わりもないということに気づくのです。1の後に0をつければ10になります。もう一つ0をつけると100になります。このようにして0を加え続けると、1000、10000、100000と、数値も大きくなっていきます。100000という数字から、0をすべて取り除くと1が残ります。0が数字の1のあとにあるときにのみ、価値が生じます。「私」、「私の妻」、「私の子どもたち」、「私の財産」等々は、すべてゼロのようなものです。これらのものは、数字の1のような神と関連したときに、初めて価値があるのです。全世界はゼロ(Zero)のようなものです。全世界はヒーロー(Hero=英雄)である神から出現しました。皆さんがゼロをヒーローと勘違いしているのは迷妄のためです。迷妄に浸っている限り、絶対に神を悟ることはできません。迷妄から疑念が生じ、疑念はあなたから幸せを奪ってしまいます。疑いは毒に似ています。この毒をあなたの心から取り除きなさい。人々は妻や子どもたちや友人を疑います。他人を疑うのは恥ずかしいことです。ですから、決して疑いをもってはなりません。たとえ一時的に疑いの気持ちに負けることがあったとしても、絶対に長く心に留めてはなりません。神への信仰を強めなさい。信仰を強くしたいなら、決して疑いをもってはなりません。疑いはあなたを危険にさらし、あなたは人生において多くの困難に巻き込まれることになります。

車は四つのタイヤすべてに空気が入っていて初めて、滑らかに走ります。人間の身体は車に似ています。心はハンドルです。ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)は四つのタイヤです。この四つのタイヤを信仰という空気で満たすべきです。タイヤの一つがパンクしただけでも、あなたの人生は危険にさらされます。心というハンドルをしっかりとコントロールしていなさい。そうして初めて安全に人生の目的地に到達できるのです。

愛の化身である皆さん!
 世界全体が五大元素に満ちみちています。皆さんはこの五つの元素の間に、完璧なバランスと調和を保たなければなりません。自転車に乗るときは完全なバランスを保たなければなりません。バランスを正しく保たなければ、事故が起きる可能性があります。同じように、心のバランスが正しく保たれていて初めて、真の人間として生活することができます。心のバランスが正しく保たれていなければ、人間性は崩壊します。人間として生まれてくることは、もっとも難しいことです。このような貴重な人生を授かるという恩寵を受けているのに、動物のように行動することは何と恥ずかしいことでしょう。皆さんは人間らしく生きるべきです。心をコントロールしなさい。これがこの神聖なシヴァラートリーの夜に皆さんに伝える私のメッセージです。(大喝采)

あなたは昆虫やウジ虫としてではなく人間として生まれてきたのだ、ということを理解しなさい。あなたは、動物でも、鳥でも、野獣でもありません。Manava(マーナヴァ/人間)という言葉の意味を理解するべきです。「Ma」(マ)は違うという意味で、「Nava」(ナヴァ)は新しいという意味です。あなたがここに来たのは初めてではありません。あなたは、新しくこの地球にやって来たのではありません。今回人間として生を受ける前にも、何度も生まれてきたのです。過去の、卑しい動物的な性質をすべて手放して、新しい人生を始めなさい。人間の一生は大変神聖で神秘的なものです。神のみがこの神秘を解き明かすことができます。ヴィシュウェーシュワラ(Visweswara/宇宙神)はヴィシュワ(Viswa/宇宙)全体に浸透しています。宇宙神はすべての描写 を超越しています。宇宙神は、あなたの中に真我(アートマ)という形で存在しています。真我を実現する道は一つしかありません。それは、「私のもの」という感覚を手放すことです。あなたは、「これは私のものです。そして、あれも私のものです」と言います。このような世俗的な執着を捨てたとき、あなたは純粋性と着実さと無私の精神を身につけます。あなたは苦しみや、心配や、不安から自由になるでしょう。最終的に、あなたは解脱(モークシャ)を得ます。人間性を獲得したからには、神性のレベルまで上昇するよう努力すべきです。それが皆さんの目標です。もし皆さんが、永遠に人間性のレベルに留まっているとすれば、いったい何の役に立つでしょう? 神のレベルに達するためには、健全な知性を育てるべきです。一体性は、純粋性をもたらし、純粋性は神性へと導きます。ですから、皆さん方全員が一体性を身につけなければなりません。皆さんは人類に所属しています。人類という一つの家族に属しているのです。ですから、皆さんはお互いに兄弟姉妹のように振る舞わなければなりません。一体性の精神がなければ、純粋性に影響が及んで、あなたを神性から遠ざけます。したがって、皆さんは、何よりも先に一体性を培わなければなりません。そうして初めて、神性の体験について考えることができるのです。

愛の化身である皆さん、学生諸君!
 諸君はサティア サイ大学の学生です。このすばらしい教育機関の学生であるからには、他の人々に一体性の手本を示さなければなりません。一体性の原理を理解して、日々の生活の中で実践しなさい。一体性を培って初めて、諸君にサイの学生と呼ばれる価値が生じるのです。一体性がなくて、どうして純粋性を体験できるでしょう? あなたの弱点をすべて取り除きなさい。心の底から神を愛しなさい。心に神への愛があるとき、すべての邪悪な性質は追い払われてしまいます。皆さんは、愛によってどんなことでも達成できます。ですから、あらゆる努力を注いで愛を培いなさい。
(バガヴァンは「プレーマ ムディタ マナセ カホー…」のバジャンを歌ってから、御講話をお続けになりました。)

心の底から神の御名を唱えなさい

愛の化身である皆さん!
 はるかな昔から、ラーマ神の御名は帰依者を保護し、正しい道へと導いてきました。ラーマの御名がいくつもの時代を通 じて人々の心に刻み込まれてきたことを見ると、その威力が容易に想像できることでしょう。このこと自体が神秘です。ラーマの降臨から何万年もたっていますが、ラーマの御名はつねに新鮮で、新しさを保っています。山の頂上にいようと、村にいようと、都会にいようと、ラーマの御名を唱えることによって、すべての人が計り知れない喜びを味わいます。

あるとき、クリシュナデーヴァラーヤ王の宮廷で討論会があり、宮中の八人の学者が参加していました。クリシュナデーヴァラーヤはその学者たちの中でだれが一番優れているのかを知りたいと思っていました。王は学者たちに、異なった五つの言語でありながら同じ意味をもつ五つの文字で、意味のある一つの文章を組み立てるように言って、「明朝7時までにこの質問の答えを考えついたものには、相応の褒賞(ほうしょう)を与えよう」と付け加えました。

テナリ ラーマクリシュナは、家が遠かったのでその夜は義弟の家に泊まることにしました。心地よいベッドが用意されましたが、ラーマクリシュナはその上で寝るのを断りました。彼は、「私は、王から出された問題の答えを、明朝までに考えなければなりません。こんなベッドで寝れば、すぐに眠ってしまうことでしょう。ですから、牛小屋の中に簡単な寝具を用意してください」と言いました。彼が寝ていると、深夜の一時に牛の中の一頭が子牛を出産しました。ラーマクリシュナは大きな声で義弟にそのことを伝えました。義弟は牛たちにパールヴァティー、ラクシュミー、サラスワティーというような名前をつけていたので、どの牛が子どもを産んだのかを尋ねました。義弟はラーマクリシュナに、「Ye Aav Ra Bava?」(おお、義兄さん。それはどの牛ですか?)と聞いたのです。

この言葉を聞いて王の問題が解けたので、ラーマクリシュナは喜びをこらえ切れませんでした。そして、ラーマクリシュナもその言葉を何度も繰り返しました。義弟はラーマクリシュナのこのおかしな行動は寝不足のせいだと思いました。

次の朝、ラーマクリシュナは王宮に行って、他のだれも答えを解けなかったことを知りました。他の学者たちは皆、そのような文章を作ることは不可能だと確信していました。「『Ye Aav Ra Ba Va』が答えです」とラーマクリシュナは言いました。だれもが興味をそそられました。そこでラーマクリシュナは、「Yeはマラティ語、Aavはヒンディー語、Raはテルグ語、Baはカンナダ語、Vaはタミル語で、いずれも『来なさい』という同じ意味をもっています」と説明しました。この文章には、五つの言語がすべて反映されています。

学生諸君!
 諸君が口にする言葉は、さまざまな意味を伝えることがあります。ですから、話をするときには十分気をつけなければなりません。美徳を培って理想的な人生を送りなさい。そうして初めて、スワミは喜ぶのです。もし、あなたが理想的な行いによって私を幸せにしたなら、私はさらに多くの幸せをあなたに授けます。あなたの幸せは私の幸せです。どこに行こうとも、よい評判の立つ人になりなさい。あなたの人格は、私に取って大変重要です。ですから、あらゆる努力を傾けて人格を形成し、他の人々の理想となりなさい。これが、この吉祥のシヴァラートリーの日に、私が皆さんに与えたいと願うメッセージです。皆さん方全員が永遠の至福を体験する日こそが、私にとってのシヴァラートリーです。

あるとき、ティヤーガラージャがタンジャヴールで音楽のコンサートを行いました。演奏会場には、多くの卓越した音楽家や学者たちが来ていました。ティヤーガラージャは、プログラムの最初に来賓たち全員に敬意を表して、自分が作曲した「エンダロー マハヌバヴル アンダリキ ヴァンダナムル」(神を体験した偉大な魂は、たくさんいらっしゃいます。それらすべての魂の前に、私はひれ伏します)という有名な曲を演奏しました。皆はティヤーガラージャが歌う美しいメロディーに耳を傾けて、至福のときを過ごしました。神はすべての人に内在するので、集会に参加したすべての人に敬意を表すべきだ、という見本を、ティヤーガラージャは身をもって示したのです。何年も前、ある学者がプラシャーンティ ニラヤムの会合に招かれて、講演を依頼されました。学者は講演の最初に、聴衆に向かって、「一人の例外を除いて兄弟姉妹の皆さん!」と言いました。そして、自分の妻も聴衆の中にいることを説明したのです。その学者は、集会で講演するときでさえ、自分の妻のことを考えていたのです。公の集まりで聴衆に語りかけるとき、私たちはこのような違いを感じるべきではありません。すべての人に対して敬意を示すべきです。

愛の化身である皆さん!
 この神聖なシヴァラートリーの夜に、皆さん方全員に祝福を与えます。(大きな拍手が続く)。一晩中神の御名を歌い続けなさい。そして、できるだけ神を想ってこの夜を過ごしなさい。そうして初めて、神の至福を体験することができます。神の光輝の顕現すら目撃することができます。心の底からバジャンを歌いなさい。どの御名を歌ってもよいのですが、神の御名の霊的な意味を理解すべきです。たとえば、「Digambara」(ディガムバラ)はシヴァ神の御名の一つです。通 常、ディガムバラとは衣服を身に着けていない人を指す言葉です。しかし、霊的な意味を調べてみると、「ディガムバラ」とは、四つの方角(ディックル、東西南北)を衣(アムバラ)としている者のことです。人々はこの言葉を誤解して、シヴァ神は身体に何もまとっていないと勘違いする可能性があるので、バジャンの中ではこの言葉を使わないほうがいいでしょう。



翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sanathana Sarathi March 2006

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