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人は行為に生まれ、 (テルグ語の詩) 愛の化身である皆さん! 青年は神聖な道を歩むべき神は人間に、身体、心(マインド)、理知、心の要素(チッタ)を授けました。青年は、健康な身体、 目が与えられているからといって、すべてを見る必要はありません。よいものだけを見るようにしなさい。他の人々の批判や不必要なものを耳に入れてはなりません。他者の批判を聞いたり悪いものを見ることは、大きな罪です。悪を見たときのみに悪が身につくのです。私たちは、よい言葉を聴こうとする代わりに、悪い話に耳を傾けています。スールダースは盲目でした。しかしスールダースは、絶えずクリシュナ神の御名を唱えていました。それゆえクリシュナ神は、スールダースにダルシャンと人生の成就を与えました。なぜ神はあなたに舌を与えたのでしょうか? 一切合切すべての味を楽しむため、他の人々の悪口を言うためでしょうか? いいえ、そうではありません。舌は神の栄光を歌うために与えられました。シュラーヴァナム(神の栄光を聴くこと)、キールタナム(神の栄光を歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(神の蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(神を崇敬すること)、アルチャナム(神仏の像を礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(神の親しい友となること)、アートマニヴェーダナム(真我なる神に全託すること)――人間はこれらの礼拝の方法(バクティ マールガ、信愛の道)を実践することによって、神を実現することができます。 すべての人を神の子と見なしなさい神の御名を唱えなさい。他の人々にも唱名を聞かせ、人生を価値あるものとさせなさい。私たちはキールタン(神への信愛を歌うこと)を行います。何のために行っているのでしょうか?
ラーガ(インド音楽のメロディー、旋律法)の旋律を楽しむためでしょうか?
いいえ、違います。私たちのローガ(病)を取り除くために行っているのです。「ラーマ!
われを救いたまえ!」という文句は詩のように 私たちが自分の生活の中でセヴァ(奉仕)を実行した上で、他の人々にセヴァの価値を教えるなら、人々に気づきが生じます。すると人々は、「この子どもたちはとても多くの良いことを教えてくれている。だから私たちもこの子たちに助けを施すべきだ」と考えるようになるでしょう。私たちは子どもに礼儀正しく話すべきです。子どもを呼ぶときには、「かわいい子! ここにおいで」と優しく言うべきです。怒りを込めて「さあ、ここに来なさい」などと言って呼ばないようにすべきです。子どもを傷つけないように、愛を込めて優しく話しなさい。怒った顔を向けてはなりません。子どもと話しているときには、その子への愛を表現すべきです。愛は最高の力です。ですから、「おいで、兄弟よ、おいで」と言って愛を込めて皆を呼びなさい。「お金や体のことで困っていることはありませんか?」と、困っていることについて尋ねなさい。相手の問題を十分に理解したのちに、必要な援助を与えなさい。父親や母親、親類や友人がいないために、孤独な生活を送っている人もいます。私たちは、そのような人に兄弟愛を注ぐべきです。「私はあなたの兄弟同然です」と言って孤独な人を励まし、「親愛なる人よ! あなたにはお姉さんも妹さんもいないのですね? 私はあなたの姉です。私はあなたの妹です」と言って、愛を込めて話しかけるべきです。孤独な人にこのように親しく話しかけて、勇気と援助を与えるべきです。まさしく、あなた方は皆、一人の母の子どもたちです。その母は神です。「人類は皆兄弟、神は父なり」という格言に従いなさい。すべての人は神の子なのですから、すべての人を自分の兄弟姉妹と見なすべきです。しかし、自分の所有物をすべての人に分け与える必要はありません。どんな人に会っても、礼儀正しく話し、心からその人を愛しなさい。 神は愛の化身です。神は、神の愛によって全人類を守護しています。皆さんに愛がありさえすれば、それで十分です。そうすれば、皆さん全員が一つに結ばれるでしょう。言葉や行動によってお互いの間に距離を作るべきではありません。すべての人を愛によって自分の近くに引き寄せなさい。そうすれば、あなた方は皆、神のそばにいられるようになるでしょう。あなたが愛を込めて他の人を見るなら、神も愛を込めてあなたを見ます。どんな状況に置かれたとしても、決して怒りや嫉妬、偽善や虚栄を示してはなりません。他の人に怒りや憎しみをもって接してはなりません。あなたの愛を感じることによって、他の人々の中の愛も増大します。あなたが他の人に愛をもって接すれば、その人もあなたに愛を示すでしょう。これに対して、もし怒りを示すなら、その人もあなたに怒った態度をとるでしょう。あなたの家の前に物乞いが立ち、「バヴァティ、ビクシャム デーヒ」(お母さん、どうか施しを恵んでください)と言って食べ物を求めてきたら、愛を込めてしばらく待つように言い、家の中から食べ物を持ってきて差し出し、物乞いを幸せにするようにしなさい。 ラングーン(ミャンマーの首都ヤンゴンの別称)の解放を求める戦争中、ある母親と息子がやっとのことで戦争地帯から逃れ、どうにかコルカタにたどり着きました。二人には住む所も食べ物もありませんでした。母親は家々に施し物を請うて歩き、そのほとんどを息子に与え、わずかな残りを食べていました。十分な食べ物が得られなかったときには、すべてを息子に与え、自分は何も食べずに済ませました。その結果 、母親は日ごとに弱っていきました。ある日、母親の苦労を見かねて息子が言いました。「お母さん、お母さんは休んでいてください。今日から僕が二人分の食べ物を持って来ます」。その日から、息子は家々に物乞いに行き、ほとんどの食べ物を母親に与えて、自分はわずかな残りを食べました。ときたま、自分はもう食べたと母親に嘘をつくこともありました。その結果 、息子もひどく弱ってしまいました。息子に母親の面倒を見る体力はなく、母親にも息子を守る力はありませんでした。 ある日、息子は施しを求めて、ある役人の家の前に立ちました。役人はベランダの安楽イスに座ってくつろぎながら、新聞を読んでいました。役人は同情し、家の中に入ってバナナの葉に食べ物を盛ってきました。役人はここに座って食べるようにと言いました。けれども息子は、母親のために食べ物を家に持って行くと言いました。役人は言いました。「君はお腹が空いていると言った。それなら、どうしてここで座って食べないのかね? お母さんにはそのあとで持って行けばいいじゃないか」。息子は答えました。「だんな様、私の母はずっと私のために、大変な苦労をして食べ物を持って来てくれました。その結果 、母は身体を悪くしてしまいました。だから僕は、先に母に食べさせなければなりません」。そう言っているうちに、息子はめまいがしてきました。「先にお母さんに、先にお母さんに・・・・」。そう口にしながら、息子は倒れ、息を引き取りました。役人は深く悲しみ、少年の母親への愛に驚嘆しました。役人は母親を捜しに行き、木の下で横になっているところを見つけました。役人は、息子が死んだという悲劇的なニュースをどのようにして伝えるか、選択に悩みました。役人は、使用人の助けを借りて息子の遺体を母親の隣に置きました。母親は即座に起き上がり、「愛しい坊や! 愛しい坊や!」呼びかけました。けれども、返事はありませんでした。すると、役人が言いました。「ああ、お母さん! あなたの息子さんは、あなたに食べ物を持って来る間に亡くなったのです」。母親は、「ああ! 息子を亡くした私に、どうして食べ物など必要でしょう?」と言って悲嘆に暮れました。 愛を失ったこの世の血縁関係は無益母親は体力がある限り子どもを養います。子どもも同じように自分の母親を養うべきです。神は、お互いを養い育むために、私たちに人間としての生を授けました。兄弟姉妹といった血縁関係は何のためにあるのでしょう? 資産や財産分与のためだけにあるのではありません。これらの血縁関係は、愛を育むため、そして、互いに愛を分かち合うためにあります。愛を互いに分かち合う人が、真の血縁です。愛を失ったこの世の血縁関係は無益です。丈夫で力のある人は、弱く無力な人を守るべきです。だれか困っている人を見かけたら、その人に思いやりを示し、涙をぬ ぐってあげるよう努めなさい。これが真の慈愛です。このような慈愛は正義です。それは愛です。私たちが自分の愛を拡大したとき、全世界に幸福をもたらすことができます。ですから、愛を育みなさい。もし貧しい人や病人、困っている人に出会ったら、何であれあなたができる援助を施しなさい。あなたがそのような人々に助けを差し伸べるとき、神は神の愛をあなたに降り注ぐでしょう。神はすべての人間の内に、愛という姿で存在しています。この愛を無駄 にしたり誤用したりすべきではありません。今日、私たちは勝手気ままにあらゆるものに愛を示しています。好ましくないものを愛することによって、私たちは誤った道をたどり、惨めな状況に陥ります。 外の人には大きな愛を示すけれども、家の母親や父親には同様の愛を示さない人もいます。まず両親を愛し、それから他の人を愛すべきです。しかし、愛を友人や血縁のみに限定せず、すべての人を愛すべきです。そうして初めて、神は神の愛を降り注いでくれるでしょう。道で困っている人や怪我している人を見たら、知らん顔をしてはなりません。どれほど緊急の仕事があったとしても、そうした人の苦しみを取り除くよう努めるべきです。そうすれば、神が前に現れて、私たちにエネルギーを注いでくれるでしょう。神よりも大きな愛を与えられる者はこの世にいません。私たちはただ神の愛を得るために、バジャンや奉仕活動を行います。神の愛は私たちを大きなエネルギーで満たします。このエネルギーを与えられるのは神のみです。ですから、神を愛し、まさに神の子どもたちである万人を愛しなさい。孤児になる子どももいます。皆さんは孤児たちの苦しみを軽減させるべきです。そうして初めて、皆さんの人間としての生は価値あるものになります。困っている人を見て、何の思いやりも示さずに立ち去ったとします。これより大きな罪はありません。その翌日、あなたが困難に陥るかもしれません。そのときあなたの友人たちは同様にあなたを無視し、あざけるでしょう。それゆえ、他の人を愛し、他の人の愛を受け取りなさい。慈善と親切はダルマ(正義)の重要な一部分です。 飢える人に食物を与えることよりも偉大な慈善はない (テルグ語の詩) どんな状況であれ、怒りが自分を征服するのを許してはなりません。両親には従うべきです。自分を憎む人さえも愛するようにしなさい。人は愛のために自らの命さえも犠牲にすべきです。人生はその人が愛をもって、初めて価値あるものとなります。 愛を育み、神との一体性を体験せよセヴァ ダルのメンバーの皆さん!! それゆえ、愛の化身である皆さん! あなた方は皆、愛を体現しています。皆さんの内なる愛をもっともっと発現させなさい。それは神性の一面 です。このことに関してクリシュナ神は、すべての生物は神の神性の一面にすぎないと述べました。愛しい人々よ! 皆さんは私と別個のものではありません。私は皆さんの内に在り、皆さんは私の内に在ります。私が皆さんを愛するように、皆さんもすべての人を愛するべきです。そうすれば、皆さんの愛と私の愛は一つに結ばれます。皆さんが愛に愛を加えていけば、愛は限りなく増大します。内なる愛を育んで、初めて皆さんは偉大になることができます。これが皆さんのなすべき奉仕です。愛を育んで、初めて皆さんは神の愛と恩寵に値する人となるでしょう。 (バガヴァンは「プレーマ ムディタ マナセー カホー ラーマ ラーマ ラーマ」のバジャンで御講話を締めくくりました)。
翻訳:サティア・サイ出版協会
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