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すべての名と姿はまさに至高なる御方の顕現である (サンスクリット語の詩) 愛の化身である皆さん! この二日間、皆さんはあらゆる不便さに耐えて会議に参加し、このホールに座っているスピーカーの話を聞きました。皆さんがはるばる遠い国々からここにやって来てこの会議に参加できたことは皆さんにとってとても幸運なことです。皆さんはたくさんのお金を使い、非常な骨折りをしてここにやって来ました。このこと自体が皆さんのハートの清らかさの証です。この世界には何十億という人々がいます。何十万という学校や大学があります。しかし、ほんの少数の人々だけがここに来る幸運に恵まれたのです。皆さんがどれだけ幸運であるか想像できるでしょう! ここに来てこの大会に参加したからには、何を学ぶことが期待されるでしょうか? まず第一に、皆さんは自分のハートの性質を理解して、真理、正義、平安、愛、非暴力という人間的価値を顕さなければなりません。そうして初めて、皆さんは名実ともに教養があると言えるのです。この世界には、おびただしい数の書物を学ぶ弁護士(ロイヤー)がたくさんいます。しかし、そうした学習にもかかわらず、そうした弁護士の中にはたくさんの「嘘つき」(ライアー)が見られます。たくさんの医者がいます。しかし、何の役に立っているでしょう? 医者たちは職業的なライバル意識によって泥沼にはまり込んでいます。どこにも調和を見つけることができません。何よりもまず私たちは調和を育まなくてはなりません。 私たちは皆、神の子供です。私たちは皆、兄弟姉妹です。私たちはこの真理をハートに保持すべきです。時には兄弟姉妹の間にも意見の不一致があるかもしれません。ですから、互いに合わせることを学ばなくてはなりません。それだけではなく、私たちはまず第一に、理解し合わなければなりません。十分な理解があるとき、調整は容易になります。十分な理解なしにはどんな調整もできません。皆さんはまず、スワミが教えることは何であれ、皆さんに対するスワミの愛から来ているということを理解しなくてはなりません。 今日、科学の分野は大きく進歩しました。科学者たちの発明はすべて、感覚作用の範囲にあります。実際、多くの科学者は無分別な行動をとり、過ちを犯しています。科学者は、自分たちが何を言い、何をしているかをわかっていません。科学者は、自分たちは社会の役に立っていると言いますが、実際はその逆のことをしています。決して助けず、常に傷つける――これが科学者のモットーであるかのようです。その結果、今日、人々は恐れと不安の中で人生を送っています。飛行機に乗っても、目的地に無事到着するか確信が持てません。人々は恐怖にとらわれています。ネズミのことさえ怖がっています! 決して何も怖がってはなりません。恐れてはなりません。恐れは不安と迷妄の根本原因です。今の人々は、果物や野菜を食べることさえ恐れています。というのも、果物や野菜が健康に害のある化学物質の助けを借りて栽培されているからです。私たちが食べる食べ物、飲む水、吸う空気はすべて汚染されています。そのように汚染された環境の中で、どうして健康な生活を送ることができるでしょうか? ですから、私たちは自分たちの生活を汚染のないものにするべきです。私たちはそれを自分自身でしなくてはなりません。単に自分の味蕾(みらい)を満足させるためだけにジャンクフードを食べて、健康を害するべきではありません。自分の健康に十分な配慮をするなら、皆さんに生まれる子供たちも健康になるでしょう。 いつも真実を話しなさい。真実を話すだけでなく、批判に遭っても落ち着いて平静でいなさい。そうして初めて、平安はあり得るのです。私たちの古代の賢者(リシ)たちは自らの霊性修行(サーダナ)の一環として沈黙を守ったものでした。沈黙を守ることは霊性の道における進歩を促進します。沈黙を実践する時、皆さんは容易に心の平安を体験することができます。愛は平安から現れます。愛に満たされているなら、あなたに敵はいなくなるでしょう。ですから、愛を持って人生を送りなさい。愛によってのみ、私たちは世界に平和を確立することができます。 今日、人々は平和(ピース Peace)のことを話しますが、どこを見ても分裂(ピースィズ Pieces)しかありません。国家さえも分断されています! 私が言いたいのは、人々がいつも国の利益よりも自分たちの地域の利益を優先しているということです。私たちは一つの国として団結すべきです。誰かが皆さんに「どこからいらしたのですか?」と尋ねたら、皆さんは誇らしく自分はインド国民であると言うべきです。プッタパルティですとか、アナンタプル県ですなどと言ってはなりません。狭い心の人だけがそのような答え方をするのです。「私はインドから来ました」――これが皆さんの返答であるべきです。 同様に、カリフォルニアから来ましたと言うべきでもありません。カリフォルニアはアメリカのごく一部にすぎません。アメリカから来ましたというべきです。常に考えを広く持ちなさい。そうした広い心が授けられているのは幸運なことです。皆さんが広い心を養うなら、皆さんの子供たちも広い心を持つでしょう。 親は自分の子供をバル ヴィカス クラス〔バールヴィカス、子供の開花教室〕に入れて、神聖な教えを授けるべきです。親の通りに子供はなります。ですから、親は子供が自分たちを真似ることができるよう、正しい道を歩み、理想を示すべきです。子供が適切に振る舞わないなら、それは親に責任があります。ですから、親は子供を育てるにあたり、細心の注意を払うべきです。一定の年齢に達した後には、子供は親に従いません。なぜなら、親が正しい道を歩んでいないからです。子供に善良であってもらいたいなら、子供に出世してもらいたいなら、親は模範的な人生を送るべきです。 父親と母親の間に意見の食い違いがあるべきではありません。子供に話すことは何であれ一致しているべきです。母親があることを言い、父親が別のことを言う家庭があります。そういった両親の間の協調性と理解の欠如は、よい兆候ではありません。両親はともに同じ言葉を主張し、子供に正しいことを教えなくてはなりません。 まず第一に、親は子供に真実を固く守ることを教えるべきです。真理の道を歩むならそれで十分です。なぜなら真理はすべての基盤だからです。 サッティヤンナースティ パロー ダルマハ 平安は正義から生じ、愛は平安から現れます。愛があるところには非暴力があり、誰もが平和な生活を送ることができます。国が平和と繁栄を得なければならないなら、私たちは真理の道に従うべきです。真理とは何でしょうか? マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム カルマンニェーカム マハートマナム もし、あなたの思いと言葉と行動が一致していないなら、それは欺瞞です。子供たちに真理に従うよう教える前に、私たちは自分の日々の生活において真理を実践すべきです。そのとき初めて、子供たちは私たちを見習って理想的になるのです。 私たちはうわべだけの生活ではなく、「真心のこもった生活」を送るべきです。今日、教育システムをはじめ、あらゆることがうわべだけになっています。人々はたくさんの聖典を読み、マントラを唱え、瞑想をします。しかし、そのすべてを、うわべだけで行っています。行う霊性修行は、何であれ精魂を傾けて行うべきです。 瞑想という名のもとに、人々は目を閉じ、足を組んで座りますが、心はコントロールができていません。心は気まぐれにあちこちに行きます。ですから、まず第一に心をコントロールすべきです。 マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モークシャヨー 思いの通りに、行動は為されます。ですから、善い思いのみを抱くべきです。善い思いは善い行動へと導き、最終的に善い結果をもたらします。 心の気まぐれに従ってはなりません。心のコントロール下に置かれてはなりません。心があなたのコントロール下に置かれるべきです。心は狂った猿のようなものです。心は無制限にどこへでも行きます。しかし、心は、神へと向けられるなら、静まって落ち着きます。 太陽が昇る時、私たちの影はとても長いものです。もし、太陽に向かって歩き始めれば、影は私たちの後ろにできます。逆に、もし、太陽に背を向けて反対方向に歩くなら、私たちは自分の前を行く影の後ろをついていかなくてはなりません。太陽が頭上にある時、影は私たちの足元にあります。マーヤー(幻影)は私たちの影のようなものです。マーヤーを克服するためには、心を神へと向かわせなくてはなりません。心がまっすぐ神に集中しているなら、マーヤーは足元の影のように完全に征服されます。 時計には秒針、分針、時針の三本の針があります。秒針は最も長く、他の二本よりも速く動きます。秒針が60の目盛りを過ぎると、分針は一目盛り動きます。同様に、分針が60の目盛りを過ぎると、時針は一目盛り動きます。しかし、時針が最も重要です。神を時々しか想わずに残りの時間を世俗の追求に費やすことは、ほとんど重要性のない秒針のようなものです。一方、いかなる時も神を常に想っていることは、最も重要な秒針のようなものです。 心の気まぐれに従って行動してはなりません。先ほど述べたように、心は解放か束縛のいずれかをもたらすことができます。ですから、心のコントロールを実践して、心を正しい方向、すなわち真理や愛に向けなくてはなりません。その時、心は定まり、集中力が得られます。愛は真理であり、真理は愛です。愛に生きなさい。 ここで言う愛とは肉体的な愛や世俗的な愛ではありません。霊的な愛をハートに抱くべきです。その時初めて、心の落ち着きを培うことができます。世俗的な愛は私たちの心を変わりやすく不安定にするだけです。ですから、心を常に神に集中させていなさい。そうして初めて、平安を体験することができます。人々はそれを大変難しいと考えますが、私に言わせれば、これほど簡単な霊性修行は他にありません。神への愛を育めば、心はいとも簡単にコントロールすることができます。一方、心が神に向けられていなければ、決して心をコントロールすることはできません。何をするにしても、それを神の仕事と考えなさい。 すべては神の意志によって起こります。自分の意志によってのみ物事は進む、という妄想を抱いてはなりません。もし、それが真実だとすれば、なぜ皆さんの人生で起こるある種の出来事に対しコントロールが利かないのでしょうか? すべては神の意志によって動くのだということを理解しなさい。もし、あなたに何か良いことが起きたなら、それを神の意志と考えなさい。何か悪いことが起きたなら、それも神の意志として受け入れなさい。 何であれ神がすることの背後には、皆さんには理解できない何らかの目的が必ずあるのです。神がすることは何であれ、皆さんのためになされます。ですから、すべてを神の意志に委ねなさい。 スカドゥフケー サメークルットワー ラーバラーバウ ヂャヤーヂャヤウ 〔バガヴァッドギーター2章38節前半〕 何が起ころうとも、それを神の愛の所業と見なし、心から歓迎しなさい。 神の愛に没頭するなら、皆さんの努力はすべて報われるでしょう。しかし、今日人々は世俗的な愛にのみ没頭しています。世俗的な愛を育む人は嘘つきです! 神の愛のみが本当の愛であると言えます。神の愛は決してあなたを裏切りません。人には好きなように考えさせておきなさい。どんな風にでも批判させておきなさい。しかし、常にしっかりと神の愛に定まっていなさい。どのような状況においても、神の愛の道からそれてはなりません。神の愛をハートに抱くなら、あなたの将来とあなたの子供たちの将来は安全で安泰でしょう。 誰かが皆さんに「あなたは誰ですか?」と問う時、皆さんは正確に答えることができません。皆さんは自分を物質的な身体と同一視しています。しかし実は、物質的な身体は、心(マナス)、理知(ブッディ)、意識(チッタ)等々といった様々なものが入っている皮袋のようなものです。ひとたび肉体から生命原理が減退してしまうと、肉体は私たちにとって何の訳にも立たない「空の袋」になります。それゆえ、私たちはそうなった肉体を火にくべて灰に変えるのです。肉体が「空の袋」になって、燃やされて灰になる前に、肉体に入っているものをすべて神に捧げ、人生をまっとうするべきです。 まず第一に、欲望、怒り、貪欲、愛執、高慢、嫉妬といった悪い性質を捨ててしまいなさい。これらがあなたにもたらすものは惨めさのみであり、幸福はもたらしません。これらの悪い性質を捨て去った時にいかに幸せに満たされるかを、あなたは自分自身で確かめることができます。 そのような永遠の至福を体験するために、あなたの中にあるものをすべて神に捧げなさい。あなたは数多くの欲望を持っています。けれども、その欲望をすべて満たすことが可能ですか? いいえ、不可能です。自分の欲を満たす過程で、決して他人を傷つけてはなりません。もし、何かを欲しているなら、神に祈って、直接神に頼みなさい。神との直接の接触を確立しなさい。もし、「間接的」な方法に従事するなら、言うに言えない惨めさを味わうでしょう。 しかし、今、人々は自分の貪欲を満足させるために他人を傷つけようとしています。そのような人々は、自分の邪悪な行為の結果を刈り取らなければならない運命にあります。だいぶ前、独立運動の最中に、私は、赤ん坊が泣いていて、母親がすべてはよくなるのだから国の運命を案じることは何もないと請け合って赤ん坊をあやしているという情景を描いた歌を作りました。私はゴム人形を入れた揺りかごをやさしく揺らしながら、舞台の上でその歌を歌いました。 泣くのはおやめ、我が子よ、泣くのはおやめ (テルグ語の歌) 今日、皆さんは大人数でここに集まっています。私たちは皆さんに招待状を送ったでしょうか? いいえ、送っていません。愛こそが皆さんをここに連れてきたのです。(拍手) 憎しみではなく、愛だけがすべての人を一つに結びつけるのです。皆さんの愛と私の愛がいっしょになれば、どんな仕事でも成し遂げることができます。ですから、愛を育みなさい。愛の力をもってすれば、皆さんは誰をも味方につけることができます。たとえ強力な羅刹(らせつ)であろうと、おとなしくさせることができます。ラーヴァナがシーターを誘拐した時、ハヌマーンはシーターを捜しにランカーに行きました。ハヌマーンは、アショーカ樹(無憂樹)の庭園の木の下に座ってラーマの名前を唱えていたシーターを見つけました。シーターはラーマだけが羅刹の魔の手から自分を守ってくれるという強い信念を抱いていました。 身につけたあらゆる学識と武勇と富にもかかわらず、ラーヴァナはラーマと比べると草の葉ほどの価値しかありませんでした。なぜなら、ラーヴァナは人格を欠いていたからです。ラーマは高潔な人格者の一人でした。もし、高潔な人格に恵まれていれば、どんな大きな仕事でも成し遂げることができます。私がよく私たちの学生に教育の最終目的は人格であると言うのはそのためです。もし、人格に欠けているなら、皆さんの教育のすべては何の役に立つでしょう? 弁護士たちの中には、昼夜たくさんの本を読み続けている者もいます。ところが、法廷に行くと、真実でないことしか話しません。偉大さは読書にあるのではありません。書物が教える真理はハートに保たれなければなりません。私たちは良い人格を育てなければなりません。そうすれば、行うことすべてにおいて必ずや成功を得るでしょう。 家に帰ったら、スワミが教えたことを全部思い出して、教え子たちの間に良い人格を作り上げなさい。犠牲の精神を育み、気高い行いによって人生を神聖なものとしなさい。 ただ財産を蓄えることが何になりますか? アレクサンドロス大王は世界のさまざまな地域を征服し、この国も征服しようという願望を持ってインドにやって来ました。その帰国の途、アレクサンドロスは深刻な病に苦しみました。最期が近づいていることを察したアレクサンドロスは、大臣と将官を皆呼んで、自分はもう長くないと言いました。そして、自分が死んだら自分の体を国に運ぶようにと指示しました。それから、自分の両手を棺の外に出し、手のひらを上に向けて、都中の道という道をすべて行進するようにと言いました。これは、この世での大いなる勝利と名声に関わらずアレクサンドロスは空手でこの世を去ったということを、世の人々に伝えるためのものでした。 これは私たち皆にとっての事実です。何を貯めようが、私たちは空手で行かなければなりません。究極的な分析をするなら、この世の所有物はすべて無駄になります。この世を去る時、銀行の預金は私たちについて来てはくれません。ですから、犠牲の精神を持って、貧しい人や困窮している人のために、あなたの富を役立てなさい。そのような神聖な方法で生活を送るなら、あなたは必ずや救われるでしょう。 翻訳:サティヤ・サイ出版協会 |
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