サイババの御言葉
 
純粋性の御言葉集

一体性・純粋性・神性

故国のすべての村が、あらゆる点で発展すべきです。皆さんは、ハイデラバードやマドラス、アメリカなどから奉仕活動に参加するためにやって来ました。とはいうものの、その必要性はどこにあるのでしょうか? これ(註:プッタパルティの近隣の村への奉仕活動、通称グラマセヴァ)は、自分たちの商品を売るために、さまざまな地域からさまざまな人々が集まる定期市ではありません。あなたのいるところがどこであっても、あなたの奉仕であなたの住む地域を発展させなさい。ある場所に住む人が別 の場所に行って、その地域に貢献しようとするかもしれません。しかし、この種の異なる出身の人々の交じり合いは、目的そのものの質を低下させます。それは混乱で終わり、堕落に変わります。不必要な差異で、心が混乱したり堕落する余地を与えてはなりません。あなたは常に純粋な心で奉仕活動に従事すべきです。一体性は純粋性をもたらし、次に純粋性は神性へと至ります。それゆえ、この一体性・純粋性・神性という一体不可分の関係を常に念頭に置き、それを達成するように努めなさい。

2003年 新年の御講話「一体性、純粋性、神性を求め努力しなさい」

この聖なるクリシュナ降誕祭の日に、私は皆さんに断言します。パキスタンであれ、中国であれ、ドイツであれ、ロシアであれ、この世界のその他の小さな国であれ、大きな国であれ、全世界がもうすぐ私たちの友となるということを。それを私たちの決意としましょう。私たちの「本来の善良さ」は、それを助けてくれる一つの要因です。それはこうした一体性を望む根本的な原因です。一体性には純粋さが含まれており、純粋さは神へと導きます。皆さんは、一体性と純粋さと神という三つ揃えを勝ち取るために懸命に努力すべきです。

2001年8月11日の御講話「犠牲は私の喜びである」

バガヴァンの真実は一つです。すべてがバガヴァンのものであり、バガヴァンはすべてのものです。私の唯一の財産は愛です。私はすべての人を愛で包みます。心に憎しみを持って私のところに来る人さえも、私は愛しく感じます。私は皆さんの欠陥を探すことはしません。私は愛の原理に基づいています。すべての人が、バガヴァンの平常心に注目し、一体性の原理に従うべきです。純粋さは一体性によって生じ、純粋さから神に到達することができます。神に到達するためには、純粋さを培わなければなりません。純粋さを育てるためには、すべての人と調和して生きなければなりません。そうしてはじめて、皆さんは良い結果 を得ることができるのです。

2000年11月23日 75歳の御降誕祭の御講話「愛こそは私の唯一の財産です」

一輪の花だけで花輪を作ることはできません。患者、医者、職員といったすべての人々が調和と一体性の精神で働いています。この一体感こそが純粋さをもたらすもととなり、このハートの純粋さが神性をもたらすのです。この病院は純粋さと一体性、神性の存在を直接的に証明しています。このような純粋さと一体性と神性が他の病院にも広まって行くことが、私たちのささやかな望みです! 道徳、科学、霊性のあらゆる活動分野において、一体性はもっとも大切です。一体性がないなら、純粋さは消えてしまいます。純粋さと一体性がないなら、神性はなくなります。

非暴力 P.64〜65

悪魔的性質を鎮圧するためには、純粋性を培わなければなりません。けれども、一体性なくして純粋性を得ることはできません。一体性は純粋性に導き、純粋性は神性へと導きます。しかし現代は一体性も、純粋性も、神性もなく、人間が創り出したものにすぎない敵意と共同体しか見出すことができません。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.33

どこで至高の平安を手に入れることができるのでしょうか? それは、純粋なハートという領域で手に入れることができます。純粋なハートは、揺るぎなく、神聖で、完全に無私無欲です。至高の平安を享受するために、至高の境地に達するべきです。一体性、純粋性、神性、これら三つの理念が一つになったとき、それによってあなたは至高の境地に達します。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.36

肉体の一つひとつの部分が、身体の別の部分と同じくらい重要ですが、社会の一人ひとりの人間もそれと同じで、すべての人が等しく重要です。身体がうまく機能するためには、すべての部分が調和して働かなければなりません。人間にとって、もっとも大切なのはユニティー(一体性)です。一体性から純粋さが生まれ、純粋さからは神性が生まれます。人類同胞と父なる神という感覚を育てなさい。

一体性の実践 P.4

純粋性のもたらすもの

あなたがたのすべての行為を、ハートの純粋さをもって行いなさい。純粋なハートなしになされる行為は、不毛です。純粋なハートでなされた仕事は、どんなにささやかなものであれ、実り多きものとなります。

2002年11月19日 レディース デイの御講話「女性の責任は、子どもの人格を形成することにある」

ゴピカたちは無学で、全く無邪気でした。しかし彼女らのクリシュナヘの愛は純粋で、他のことを考えはしませんでした。毎日の仕事をしているときでさえ、想いはクリシュナに集中していました。ですから彼女らは名状しがたい喜びを体験したのです。

1996年9月4日 クリシュナ降誕祭の御講話

あなたがどこにいようとも、どの御名を好もうとも、どの姿を喜ぼうとも、あなたの心が純粋ならば、わたしはあなたを祝福します。

サティア サイ メールマガジン「今日の御言葉」より

実を言えば、もっとも尊い寄付は、純粋な心です。その心をオーガニゼーションにささげれば、オーガニゼーションは輝きます。

サティア サイ メールマガジン「今日の御言葉」より

動機の純粋さは、あなたが平安を得る上で最高の保証となります。良心の呵責とは、慈悲の心が苦しむことです。正しい行いをしていれば、眠りが妨げられたり、健康が害されたりするような、悪い影響を受けることはありません。

1008の宝石 P.24

「ただ1つの神しか存在しない。そして、神は遍在である」――これは真実です。しかし、この遍在する神に集中するためには、ある決まった対象や準備段階としての姿形が必要となります。そして、神を常にあらゆるところに存在するものとして思い描くためには、心を清め、純粋にする必要があります。それは、霊性修行(サーダナ)と呼ばれる、ある一定の心理的経過をたどることによってなされるのです。

1008の宝石 P.54

心が純粋であれば、神が姿を顕します。神は審判です。審判をだますことはできません。医者はあなたには熱がないと保証するかも知れませんが、体温計は嘘をつけません。たとえ医者があなたを動揺させないためにそのようなことを言ったとしても、体温計は真実を告げるのです。神は知っています。そして、神はあなたの価値に応じた扱いをするのです。そうであることを信じなさい。これまでに犯したすべての過ちを悔い改め、同じ過ちをけっして繰り返さないことを決意しなさい。そうすれば、神は恩寵を差し伸べてくれるのです。

1008の宝石 P.125

君たちが純粋で清らかなハートを持っていれば、世界を浄化する力を持つようになるでしょう。

2000 THE YEAR OF PREMA SPIRITUAL DIARY P.82(6/12)

心が純粋であれば、決して恐れることはありません。あなたの心に愛が満ちていれば、恐れる必要はないのです。

2000 THE YEAR OF PREMA SPIRITUAL DIARY P.92(7/4)

皆さんはここ(プラシャーンティニラヤム)に純粋で神聖なすばらしい環境を見出します。このような場所でのみ、人間的価値が花開くことができるのです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.42

現代では、あらゆる所に汚染が見られます。神の近くにいるときにだけ、完全なる純粋さを見い出すことができるでしょう。まず、人は自分のハートを清めなければなりません。純粋さは神です。神性のあるところに敵意はありません。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.43

大臣は、学生たちを正しい道に引き止める道が唯一つあると言いました。それは純粋性です。純粋性のみが皆さんを正しい道に導きます。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.96

純粋な変わらぬ思いで霊性修行を行ったときに初めて、永続する真の至福が生じるでしょう。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.128

平安がなければ幸福はあり得ません。平安はアートマ(真我)の特性そのものです。平安は純粋な心のあるところにしか存在しません。

至高の平安 P.4

ゴールに辿り着くのは、純粋なハートです。ハートに従いなさい。純粋なハートは知性を超えて探求します。純粋なハートは神からのインスピレーションを得るのです。

プレーマ ダーラ P.33

帰依心は磁石のようなものです。常に清らかであり、不純なものを一切受けつけずにいるならば、人の能力や権力、強さとは関係なく、帰依心はいかなる存在をも引きつけます。そして、スワミの理想を実行に移すことこそが、もっとも純粋な行為となるのです。

プレーマ ダーラ P.38

純粋なハートは真理を映し出す最高の鏡です。それゆえ、あらゆる修行はハートを浄化するためのものなのです。ハートが純粋になるやいなや、すべての真理が一瞬の内にハートに映し出されます。あなたが本当に純粋であるならば、宇宙に存在するすべての真理があなたのハートに顕れ出ることでしょう。

プレーマ ダーラ P.47

イエス、モハメッド、ゾロアスター、仏陀、シャンカラチャリヤ、マドゥワチャリヤ、ラマヌジャチャリヤなどの人々は彼らの行為、行動が純粋であったという理由だけで人々の忠誠心と賞賛とを勝ち得ることができました。

仏陀 P.6

ブッダは実に多くの研究をし、多くの偉人に会いました。多くの講話を聞きました。そしてブッダは、真の知識がそのような方法で得られるものではないことを知りました。汚れのない純粋な意識こそ至高の知識を授けるものだと知りました。真の知識は純粋な内なる意識(アンターカラナ)より得られます。

慈悲 P.33

日常生活の中で、人は計画を立ててそれを実行します。純粋な思いで、そして他人に害を与えないようにそれを続けるべきです。そのうち、予想もしない神聖な想いが計画することなく湧いて来ます。

サティア サイババとの対話 P.106

自分の地位を自慢すべきではありません。富や地位によってもたらされる強さは頼りになりません。道徳と純粋さだけがほんとうの強さを与えてくれます。

奉仕による修行 P.116

行動が適切で純粋な人は、良い結果のみを得るでしょう。

2000年 元旦の御講話

人は、自分の蒔いた種を刈り取るのです。よい結果を望むなら、まずよい感情を培わなければなりません。ハートの純粋さと、揺るぎのない心と、無私の行動によって、神の恩寵の享受者になれるのです。

サイラム ニューズ 77号 P.22〜23

感情が純粋になってはじめて、人は平安を得ることができるのです。

サイラム ニューズ 77号 P.23

感情が純粋でなければ、いくら財産があっても救われません。また、なにも所有していなくても、もしハートが純粋であれば、その人は最上のものを手にすることができるのです。ハートが純粋な人が見たものや触れたものは、すべて黄金に変わります。反対に、純粋さに欠け、正しい方向への努力をしない人にとっては、もっている杖でさえも、ヘビに変わってしまうのです。

サイラム ニューズ 77号 P.24

心が様々な引力から自由になって清らかになれば、エゴの意識そのものが消えて行きます。いかなる意味でも世間の影響を受けぬ こと、それが自己実現への道なのです。

英知 P.10

バンガロールでは、夏季講習が行われていました。午前七時には学生たちに朝食を出さなければなりませんでした。学生たちはナガラサンキールタン(隊列を組んでバジャンを歌いながら歩くこと)に出かけて六時に帰って来ました。私は彼らがナガラサンキールタンを終えた時にダルシャンを与えました。その後、私は水浴に行きました。一方、イシュワランマは水浴を済ませ、いつもの通 り朝のコーヒーを楽しく飲み終えて、館内のベランダに座っていました。すると突然彼女は浴室の方に向かって歩きだして「スワミ、スワミ、スワミ!」と叫びました。これを聞いて私は、「今、行きます」と答えました。その短い間に彼女は息を引き取ったのです。彼女の善良さを示すのに、これより偉大な徴があるでしょうか? 彼女は世話人も看護人も必要としませんでした。息を引き取る間際に私のことを想う人はごく稀です。通 常心は、宝石や、その他の貴重品か何かを求めて、その品物のことを思います。彼女は一階から「スワミ! スワミ!」と私を呼び、私は「今、行きます」と答えました。そして彼女は息を引き取ったのです。それは象が神を呼び求めて、神が祝福を与えるために象のいる所へ向かった話に似ています。二本の電線がつなげられ、その瞬間に魂が肉体を脱いだのです。人の一生は、このような正しい最期を迎えるための努力でなければなりません。その時、彼女の側には、娘のヴェンカンマと孫のサイラジャがいましたが、彼女はスワミだけを呼び求めたのです。最後の瞬間にこのような望みを抱くことは聖なる純粋さの賜物です。それは理想的で称賛すべき人生のしるしです。そのような態度は、何らかの外からの力によってではなく、おのずから生ずるようでなければなりません。ここに我々の学ぶべき手本があります。

1983年5月6日 イーシュワランマの日の御講話

人々は、自分は知的探究と理性にしか興味がなく、ジュニャーナ(霊的知識)の道だけを歩くのだと誇らしげに言います。ジュニャーニ(解脱して霊的知識を備えた人)になることを望んでいるのです。しかし、ジュニャーナは純粋な心を持っていなければ勝ち得ることはできません。人は「神は誰か」という探究に取り組む前に、まず自分が誰であるかを発見しなければなりません。いったん自分が誰かを発見してしまえば、神が誰であるか知る必要はありません。なぜなら、両者は同じであるからです。

1967年1月1日 マドラス市ギンディ地区での新年の御講話

学生一人一人がチッタスッディ(心の純粋)に通じるサットカルマース(善い行為)を取り上げるべきです。純粋があるところには、ジュニャーナ・シッディ(英知の夜明け)があるでしょう。これらはすべてあなたの内側だけにあります。それをどこか外側に捜す必要はありません。

ブリンダヴァンの慈雨 P.250〜251

用語に関して少し混乱が生じています。というのも、心自体が存在しないからです。心とは欲望が織り重ねられたものです。心の平安とは欲望がないということであり、その状態において心は存在しません。いわば、心とは滅するものです。心の平安が真に意味しているのは純粋性、すなわち意識が完全に純粋であるということなのです。

サティア サイ スピークス 第1巻 P.172

無私の奉仕の精神、無限で純粋な愛、汚れのない心から生ずる祈りのみが、直接至高神に届きます。

セヴァ 真のボランティア P.61

今日私たちが努力しなければならないのは、新しい宗教のためでも新しい社会、新しい道徳規範のためでもありません。それらは既に、各民族、各国ごとに存在しています。基本的な霊性修行の方法も、ほとんどの宗教において既に定められています。しかし私たちには、あらゆる意識レベルで純粋性を獲得した人々が必要なのです。人は嫉妬や利己心や貪欲や、他の様々な悪い性質からハートを解放したときにのみ完全な至福に到達することができます。社会と社会の間だけでなく人と人との間に、すべてが親戚 であり一つであるということを認識できて、そのような認識を喜ぶことのできる人々が必要です。感覚とのかかわりあいから自由に解き放たれるためには、限りある「私」という境界を越えて行かねばなりません。「身体」と呼ばれる城砦の胸壁を跳び越え、はるかなる広大な世界ヘ、熱意をもって入って行かねばなりません。「個人的な必要性」にかなう狭いヴィジョンから、「すべて」という壮大なヴィジョンヘ旅して行かねばなりません。一滴の水が大海に落ちるとき、その滴は自らの狭められた個性や名前、形を失い、大海そのものの姿、名、趣を受け入れます。もしその滴が「滴」として別 個に存在しようとしたなら、すぐに蒸発してしまい、非存在へと薄められてしまうでしょう。各々が、宇宙のすべてのものを包んでいる一つの真理の一部であるということを知らねばなりません。人生の全時間を、利己心や嫉妬や貪欲という低次の狭い道のために費やすのは非難されるべきことです。広い心(ハート)を持ち、思考(マインド)を純粋にしなさい。そうして初めて地上に平安と繁栄が確立され得るのです。

サティア サイ スピークス 第10巻 P.84

純粋性・忍耐・根気

人間にとって、純粋性・忍耐・堅忍不抜の精神はとても大切なものです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.18

三つの性質、即ち、純粋さと忍耐と不撓不屈の精神を養いなさい。これらを備えていれば、あなたは何事でも達成することができます。もしも忍耐を失いそして純粋さがなくなったとするならばその理由は信仰を失ったからです。

チャイタニア ジョーティのパンフレットより

私の身体は実に神聖です! それは、純粋さと忍耐と根気が結集されているからに他なりません。

一体性の実践 P.32

三つのP、すなわち「純粋さ」(purity)、「忍耐」(patience)、「根気」(perseverance)を遵守することで、永続する幸福と、病気とは無縁の健康が授けられるのです。

非暴力 P.38

スワミがその直接の証明です。私にはすべての力が備わっています。私には、まったく弱いところがありません。今でも、私は速く走ることができます。スワミが75歳であることを、誰が想像できるでしょう? バガヴァンが若く見える秘密は何でしょう? その最大の原因は、純粋さと、忍耐と、根気です。スワミの感情は常に純粋で安定しています。この点でスワミを見習うようにしてごらんなさい。皆さんは、自分たちはスワミの帰依者であると言っています。それなら、スワミの純粋さの、少なくとも何分の一かを身に付けることが、皆さんの務めではないでしょうか?

2000年 マハシヴァラトリの御講話

不純とは? また不純だとどうなるのか?

私たちは自分の想念、感情、外観、行為において純粋性を発達させるべきです。他方、もし人が自分の感覚と四肢を不純な方法で用いるならば、人の性質は人間的なものから悪魔的なものに堕落するでしょう。

ブリンダヴァンの慈雨 P.38

敵が存在するところに純粋さはありません。

非暴力 P.42

中には、言葉や行いを見ると非常に敬虔に見える人々が、彼らの振舞いを観察してみると、実際は魔物のような性質を持っている場合があります。そのような人々を信じて、皆さんの純粋さを失ってはなりません。最近はこのような性質を持った不純な金が増えています。皆さんは純金にならなければなりません。

一体性の実践 P.26

執着のない仕事がもっとも純粋です。そのような仕事は心に、得意と失望という重荷を背負わせることがありません。「私がやった」という意識と、「これは私のものだ」という意識の二つの牙が人を有毒にします。

セヴァ 真のボランティア P.7

最善の努力をしているのに、思いどおりの結果にならないと感じている人々がいますが、これは、その人の感情と意図が純粋でないことが主な原因です。

サイラム ニューズ77号 P.24

今の時代にも、バジャンを歌い、霊的な事柄に関する講演を行うけれども、世俗的欲望という悪臭を取り除くことのできない人々がたくさんいます。彼らが世俗的欲望を取り除かない限り、彼らは純粋な状態に到達することはできません。彼らは物質的な人生に慣れ親しんでいます。彼らは、世俗的な願望を満たそうと思って、バジャンや瞑想などを行うのです。彼らは、水気の混じったバターにたとえることができます。霊的な道にあっては、人は世俗的欲望という悪臭に付け入る隙を与えてはなりません。中には、自分自身を帰依者と呼びながら、欲望のためによこしまな人間になっていく人がいます。そのような人を帰依者と呼ぶことができるでしょうか? いいえ。それはできません。もし彼らが真の帰依者であるのなら、どうして彼らから悪臭が漂うのでしょう? 彼らの身体も、心も、知性も、またその行動も、不純さに穢されています。

2002年7月22日 国際セヴァ大会第ニ日目の御講話「欲望を慎んで神の近くに居るようにしなさい」

純粋になるにはどうすれば良いか?

心を高尚な思いと気高い理想で満たしなさい。心の中を、日夜そのように保つことで、偉大な成果 が生まれます。不純なことを語るのではなく、自分は純粋であると言いなさい。あなたたちは、自分はちっぽけで、生まれ、死にゆくものであり、常に恐れの状態の中で生きていると自分自身に暗示をかけてしまっています。愛しい子供たち! あなたたちのサイはいつもあなたたちと共に、あなたたちの内に、あなたたちの周りにいます。恐れてはなりません。幸せでいなさい。

サイの理想 P.4〜5

徳高い道に沿って考え、話し、行動するなら、人の意識は純粋となり、内なる平安を抱きます。知識は力である、と言われますが、美徳は平安です。

サティア サイ スピークス 第10巻 P.267

あなたにゆるぎない信仰と帰依があり、重ねてしっかりとした純粋なハートを持っていれば、あなたは神を自分の前に出現させることができます。ここにひとつのたとえがあります。あなたはミルクをかき混ぜてバターを作ります。そして、それに熱を加えてギーを作ります。バターに水分が含まれていれば、熱を加えると悪臭がします。その匂いは、熱を加え続けるうちに段々少なくなっていきます。バターに水分が含まれている限り、悪臭を避けることはできません。水分は完全に蒸発しなければなりません。バターは個人個人の性質を表しています。あなたの中にあるよこしまな性質は、悪臭にたとえることができます。あなたが「バター」を完全に溶かす努力をするとき、だんだんと「悪臭」は消えていきます。人が霊性修行(サーダナ)をするとき、その過程の途中で「よこしまな傾向」という悪臭が漂います。人は、サーダナを続けて、そのようなよこしまな諸傾向を克服しなければなりません。霊性修行をすればするほど、彼の中にあるすべての悪い傾向が、水分のように蒸発していきます。あたかもバターを熱すると純粋なギーが得られるように、最終的に、その人の霊性修行は望みの結果 をもたらします。

2002年7月22日 国際セヴァ大会第ニ日目の御講話「欲望を慎んで神の近くに居るようにしなさい」

あなたはいくつもの霊性修行を行っているかもしれませんが、それを誇りに思ってはなりません。まず最初に、あなたのハートを純粋にしなさい。世俗的欲望の悪臭に付け入る隙を与えてはなりません。あなたのハートを美徳の芳香で満たしなさい。他の人々の心に毒を注ぐことを唯一の仕事とする邪悪な人の言葉を心に留めてはなりません。ただ単に本を読んだり講話を聴いたりするだけでは、あまり恩恵は得られません。第一に、自分の中に着実な心と神への愛を育てなさい。信仰があれば英知が得られます。

2002年7月22日 国際セヴァ大会第ニ日目の御講話「欲望を慎んで神の近くに居るようにしなさい」

仏陀は、「ブッダム・シャラナム・ガッチャーミー、ダルマム・シャラナム・ガッチャーミー、サンガム・シャラナム・ガッチャーミー」と言いました。それは、理性(ブッディ)は正義(ダルマ)の道に従うべきであり、正義は社会の中で育てられるべきであるという意味です。そうして初めて、国家は繁栄するのです。このことは、SAIという言葉の内的な意味でもあります。Sは霊的な(Spiritual)変革を意味します。Aは社会的な(Association)変革を、Iは個人的な(Individual)変革を意味します。人間の心は、これらの三つの変革が起きたときに、初めて純粋で神聖なものとなるのです。

1999年5月30日 ブッダ プールニマの御講話

現代のあらゆる不安を取り除き、永遠の真実に立脚するためには、新しい社会秩序や新しい社会は必要ではありません。新しい宗教や新しい手順が必要でもありません。たった一つ必要なものがあります。清らかな心を持った人々を欠かすことはできません。清らかな心を持った人々が居れば、一国全体が神聖なものとなり、繁栄が約束されます。その国には純粋さと品格が存在するので、これらの高貴な魂の持ち主たちは栄えることができるのです。心の純粋さと品格が輝きを発するためには道徳心が必要です。霊性の存在しない所では道徳はすたれてしまいます。霊性という土台の上に道徳の壁を築き、道徳という壁の上に純粋さという屋根を葺かなければなりません。それが人生の手順です。壁を築くだけでは充分ではありません。土台を作るだけでも不十分です。屋根まで葺いて初めて人生は完全なものとなるのです。言い方を変えれば、自信が土台で、満足が壁、犠牲が屋根で、自己実現こそが人生であるのです。

1994年7月22日 グル プールニマの御講話

この身体という道具を整備しておくためには、食物その他の習慣を規制しなければなりません。また、あなたの身体を衣服だと考えて、汚れた衣類を洗濯屋が洗うように、ときどき体をきれいに洗わなくてはなりません。洗濯屋の仕事は衣類から汚れを取り除いて、元の白さを取り戻すようにさせることです。同じように、清潔さは人間の身体の本来の性質ですが、使い方を間違えるために汚れます。それで、神様という洗濯屋の助けを借りてきれいにせねばなりません。その方法としては、祈り、ジャパ、(神の名を反復して唱えること)、瞑想、神への愛などを実行するべきです。洗濯屋だけが衣服の洗濯をするので、床屋にはできません。そのように、神様だけがあなたのハートの不純物を取り除くことができるのであって、他のだれにもそれはできません。この身体は衣服にしかすぎないということを、決して忘れないようにしなさい。あなたがたが自分の身体を本当の「自分」とみなすのは、無知によるものです。この無知を払い去ったとき初めて、あなたがたは、燦然たる「英知の太陽」として輝くでしょう。

ブリンダヴァンの慈雨 P.30〜31

弱い不健康な身体は、決然とした行動をすることはできません。純粋で高貴な思想は、強く健康な身体だけから生まれるものです。

ブリンダヴァンの慈雨 P.35

ブッディはアートマに非常に近いところにありますので、アートマのエネルギーと光明の90%を受ける位 置にあります。心はその力をブッディから引き出し、諸感覚は心から、身体は諸感覚からその力を得ます。アートマから階段を追って身体まで力が流れる過程において、その力は量 的にも質的にも徐々に減少するのです。量的な減少を説明する簡単な話をしましょう。直接日光を受けられない暗い部屋があるとします。この部屋を明るくしようと思うならば、近くの戸外に鏡をおいて、それに反射する太陽光線を部屋の内部に向ければいいのです。ところが、太陽の直射光線に比べると、鏡による反射光線は力が弱まり、部屋のなかに反射される光はずっと少なくなります。次第に質が落ちるということでは、川の例をあげてみましょう。川の水源の泉のところでは、水は純粋で透き通 っています。ところが、川が流れてゆくうちに、いくつもの小川や支流が流れこみ、田舎に入ってゆっくり流れてゆきますと、人々が川水を使い始めるので川はますます汚れてきます。同じように、アートマの純粋さも、それがブッディ、心、感覚を通 って、最後に身体に着くあいだに、次第に汚染されます。それにもかかわらず、努力によって、ブッディを神聖で清浄なものにし、ブッディが身体に直接影響を及ぼすのを助けることによって、この量 的・質的減衰を最小限にとどめることは可能です。

ブリンダヴァンの慈雨 P.130〜131

時間があるときはいつでも、私の以前の講話ですでに説明した九つのバクティ方式、たとえばスラヴァナム(真理の聴聞)やキルタナム(神の名の吟唱)などのうち、少なくとも一つを取り上げれば充分です。神はあなたがどれほど富んでいるかとか学識があるかとかを考えません。神はあなたのマインドとハートの真剣と純粋だけに関心をもち、あなたの愛がどこまで心からのもので誠実かに気を止めます。

ブリンダヴァンの慈雨 P.251〜252

ハートを清めなければ、あらゆる欲望は不安へと至るのみです。しかも、ハートの中の不純物は数々の病気の根源です。ハートが純粋であれば、病気にかかることはありません。では、ハートを清めるにはどうすればよいのでしょうか? 神聖な思いを育てる以外に方法はありません。ほかのどんな儀式も一時的に心を満足させるだけで、役には立ちません。マインドはそう簡単には満足させられるものではありません。マインドは絶えず揺れ動いていて手に負えません。成すべきことはマインドを神へと向けることです。

バジャン 神への賛歌 P.117〜118

心を善い思いで満たし、善い活動に携わりなさい。神の御名を唱えなさい。大気が神の御名の波動で満たされたなら、すべての環境が浄化されます。この浄化された空気を吸う人々は、清らかな思いを抱くでしょう。

非暴力 P.41

環境や諸元素は、ハートの純粋さを守るために清らかでなければなりません。

非暴力  P.43

人間の性質から自己中心性が完全に取り除かれたとき、初めて国が純粋になるでしょう。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.74

純粋な愛は平安に満ちた心からしか生まれません。

至高の平安 P.8

ジャパを行うときは、声を出してバジャンにする方が良いのです。これは集まった人々にインスピレーションを与えます。もしバジャンを甘美な声で歌えば、人々は神に引きつけられるでしょう。徐々にバジャンは神への純粋な愛へと育ち、そのうちに神の恩寵がやって来ます。私達は忍耐強くその恩寵を待たなければなりません。

至高の平安 P.24

まず初めに、あらゆる不純な衝動を手放し、純粋な衝動を培いなさい。その先は、一歩一歩進むように心掛け、この純粋な衝動すらも手放して、心の対象をなくしなさい。このようにして得られた平安は、光輝いて平安に満ち、英知につながっています。実にそれは、神そのものの体験です。

至高の平安 P.39

真実はアートマであり、純粋な愛はアートマです。神はアートマであり、無私の奉仕はアートマです。これらのものを尊敬することが真の自己を尊ぶことです。もちろん平安もこういった種類のものであって、それ以外のものではありません。真実の化身であるこの上なく慈悲深い神を、愛そのものである神を絶えず想い続けること、それこそが真の自己を本当に尊ぶことです。これを獲得するためには、この世が富や地位 に与える尊敬を、無価値のものとして退け、毀誉褒貶を無視し、真実と神を心から信じて霊性修行に打ち込まなければなりません。それが真の平安であり、純粋の平安であり、永遠の平安であります。

至高の平安 P.59

阿修羅の特質を変容させて、甘露の如く純粋なものにすることのできる神の御名は、実に万人にとって、世界にとっての平安の天国であります。御名を途切れることなく繰り返し唱えること、その御姿と御名を熱烈に愛すること、それこそがバクティ(神への愛、帰依)という呼び名にふさわしいものです。バクティとは、最高の愛が、そしてもっとも純粋な愛(プレマ)が、神に向けられていることを意味します。

至高の平安 P.99

自分の行動の成果を楽しもうとする欲望を手放すことも重要です。この無執着が深く根づいたとき、意識は純粋になり、ウパラティ(物質世界から感覚を引き離すこと)が可能になります。

至高の平安 P.106

一時的なもの、名前と形の罠に包まれたもの等に対する執着を手放しなさい。いったんこのウダーセーナバヴァ(何ものにも影響を受けない態度)を培えば、揺るぎない平安と、自制心と、心の純粋さが身につきます。

至高の平安 P.114

イエスの御名をどれほど繰り返して唱えても、祈りのためにどれだけ長い時間跪いていても、神の愛についてどれほど黙想しても、欠くことのできないある種の理解が伴っていなければ、あなたの無知という黒い炭は、純白の霊的純粋さとはなりません。あなたが、神の本質と、神の理想とする地上の在り方とを把握し始めるとき、神の英知の光は、おのずから、この世と次の世のあらゆる側面 を、明るく輝く純白なものに変えて行きます。そこには無知の闇は存在する余地がありません。無知はおのずと消えてしまいます。神に関する知識が育てば、無知は自然に去って行きます。

サイババ イエスを語る P.96

人間の進歩にとって、心と頭が純粋なことが、瞑想や祈りよりも重要であることを、わたしは強調したいと思います。純粋さのみが、あなたに内在する神性すなわちクシェートラ(場)に内在するクシェートラグナ(場の主)を確信させてくれるのです。万人を愛しなさい。万人を心から敬いなさい。万人に尽くしなさい。それが、純粋さを勝ち取り、神の恩寵を得るための礼拝のサーダナ(霊性修行)です。

1008の宝石 P.107

プージャー(礼拝の儀式)、ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)、ディヤーナ(瞑想)、誓言の遵守、などといった善い行いは「手段」です。より高い識別 力が得られますように、他の人を助ける機会がもっと増えますように、と祈る善い思いもまた役に立ちます。ゆっくりと着実に、心を清め、知性を研ぎ澄まし、感覚を清浄にして、恩寵を勝ち取りなさい。

1008の宝石 P.112

熱心に規則ただしく修行を続ければ、心を滅却することができます。このような修行によって最後に得られる成果 は、ニルヴィカルパ サマーディすなわち無限にして純粋の至福意識です。

英知 P.14

不純な金はるつぼで溶かされ、ぴかぴか光って出て来ます。ラジャス(激性)とタマス(鈍性)、怒りと自惚れ、無数の執着と欲望の印象によって不純となった心は、探究というるつぼに入れ、識別 という石炭で熱されるとき、明るい光輝を放ちます。その光輝こそ、【あなた】がアートマンであるとの知識を認識した光なのです。

英知 P.29

学生たちは善良です。しかし、不必要な会話に夢中になることによって、自分たちの純粋な本質を台無しにしています。無駄 話を減らせば、過度のマンネリズムも消滅するでしょう。この二つがなくなれば純粋さは高まり、神性が得られます。

プレーマ ダーラ P.60

愛と純粋性

個々の魂が肉体の中に宿っており、神は肉体の中に宿っています。人間の愛と神の愛は異なってはおりません。事実、両者の愛の根底に流れている原理である純粋さは同じです。貴金属装身具のように首飾り、飾り輪、指輪など種類は色々ありますが、神は同じです。

2001年7月15日 ラトゥールにおける御講話

愛はアートマの原理から生じました。愛は真理の顕現です。愛は純粋であり、変わることなく、光輝き、限定されることなく、形もなく、太古よりあり、永遠で、不滅で、甘美なるものです。これが愛の九つの特質です。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.31

純粋性の姿そのものが愛です。愛は神です。愛に生きなさい。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.40

愛の純粋さを実感するとき、あなたは罪を免れるでしょう。あらゆるものは純粋な無私の愛を基盤にしています。実際のところ、愛が神なのです。けれどもあなたはこの神性を無視しています。これが最大の誤りです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.93

「執着のない人」は、万物に対する真の愛を持っています。そのような人の愛は純粋であるばかりでなく、神聖でもあります。それは平安そのものです。

至高の平安 P.49

神の御足に向けて流れる絶え間ない愛こそが、真の全託です。そのような全託のみが平安を約束してくれるのであり、純粋な平安を保証してくれるのです。

至高の平安  P.104〜105

神は至る所に存在し、純粋な心の持ち主は、至る所に神を見ます。純粋な心の持ち主とは、心が愛で満たされている人のことです。

サティア サイババとの対話 P.134

神の恩寵は、理知の鍛練や、ヨーガの曲芸、自制の苦行どによって勝ち得ることはできません。愛のみが、神の恩寵を勝ち取ることができるのです。報酬を求めない愛、駆け引きを知らない愛、すべてを愛する神への感謝として喜んでささげられる愛、そして、揺らぐことのない愛のみが、神の恩寵をもたらします。障害がどれほど多く、またそれがいかに大きなものであろうとも、愛のみが、それを克服することを可能にします。純粋さよりも大きな力はなく、愛以上に心を満たす至福は存在しません。神への愛よりも命をよみがえらせる歓びはなく、全託以上に賞賛に値する勝利は存在しないのです。

1008の宝石  P.28

神はあらゆる愛の源です。神を愛しなさい。世界を神の衣以外の何ものでもないものとして愛しなさい。愛により、あなたは愛の大海へと融合することができます。愛は、狭い心、憎しみ、貪欲を癒します。愛は束縛を解き放ち、生と死の苦しみから人間を救います。愛はやさしく穏やかに調和を奏でながら、あらゆる心を結びつけます。愛の目から見れば、すべての生あるものは美しく、すべての行いは献身的で、すべての考えは純粋です。世界は一つの大きな家族なのです。

1008の宝石 P.40

あなたは、「愛」というただ一つの言葉によってのみ生きるべきです。純粋で、私心のない神の愛によってです。

サイババ イエスを語る P.85

あなた方は、神の霊そのものであります。あなた方が、神がどのような姿を取ると考えていようとも、神をどういう名前で呼ぼうとも、けがれのない心と、神に対する純粋な概念と、純粋な愛とでそうするのであれば、善い結果 が生まれることは間違いありません。純粋で神聖な愛がなければ、いかなる道も神には通 じません。神は無私の愛をとても大切にします。神の御姿は愛であり、神は愛であるのです。

サイババ イエスを語る  P.110

神は皆さんの内にいます。神は愛の化身です。神は、皆さんが純粋な無私の愛を培ったときに、初めて皆さんの内から現れ出てきます。

1999年 74歳御降誕祭の御講話

あらゆる場所で、いかなる状況においても、絶えず神を想いなさい。純粋で無私の愛こそが、神に到達する唯一の道です。

1999年 74歳御降誕祭の御講話

皆さんは、愛のない心に愛の種を蒔かなければなりません。そこに愛の水を注ぎなさい。愛が洪水のように流れるようにして、すべてに愛を行き届かせなさい。皆さんは、このような、純粋で揺るぎない、無私の愛を育てなければなりません。これこそが、皆さんがこの新しい年に身に付けるべき霊性修行です。

2000年 元旦の御講話

無私の愛を培いなさい。すべてを愛しなさい。誰をも恐れる必要はありません。あなたの愛を純粋なものに保ちなさい。そうすれば、全世界が純粋になります。

2000年 元旦の御講話

どのようなサーダナ(霊性修行)をやろうとやるまいと、あなたがたの第一の関心事は、神の愛を育て伸ばしてゆくことでなくてはなりません。この純粋の愛を発展させるとき、あなたがたはどんなことでも成就することができます。

ブリンダヴァンの慈雨 P.164

愛に満ちた純粋なハートがなければ、あなたの行うバジャンや苦行といったものはすべて何の役にも立ちません。それは、錫メッキのはげた器に盛られた食べ物のようなものです。それは必ず悪くなります。あなたが霊性の道において従事しなければならないことは、愛に満ちたハートを育てることです。そのような純粋な愛こそが神に直接通 じる道です。それは限りなく神聖な愛です。

バジャン 神への賛歌 P.251

今日、人々は、スラヴァナム(聞く)、キールタナム(歌う)、ヴィシュヌ スマラナム(唱える)、パーダ セーヴァナム(蓮華の御足に奉仕する)、ヴァンダナム(すべてを神として礼拝する)、アールチャナム(儀式的礼拝)、ダーシャム(奉仕)、スネーハム(友情)、アートマ ニヴェーダナム(全託)等の様々な霊性修行をしますが、それは一時的な満足のためでしかありません。人が眠ることさえできるのであれば、堅い岩の上であろうが、気持ちの良いベッドの上であろうが、どこで眠るかはあまり問題ではありません。同様に人は、どのような霊性修行を行っているにせよ、心が純粋でなければなりません。心が純粋であれば、人生においてどのようなことでも成し遂げることができます。心を浄化するためには、愛の原理を育てなければなりません。愛の光は、消すことができません。皆さんがいったん愛の原理を育てれば、究極の至福に到達することができます。

2000年 マハシヴァラトリの御講話

愛を受けるのにもっともふさわしい人は誰でしょう? 世の中には神以上に、また人間の内なる神を自覚している神の体現者以上に、純粋な愛を受けるにふさわしいものは存在しません。

仏陀 P.12

「バクティ」という言葉は、神に対する純粋で穢れのない無私の愛を意味する“Bhaj”という語根から来ています。

1999年 グル プールニマの御講話

月は心を司る神です。心が純粋な愛で満たされた日こそが、真の意味での満月の日です。皆さんの心を、満月のように明るく輝かせなさい。これは、皆さんが心を愛で満たしたときに、初めて可能になります。

1999年 グル プールニマの御講話

奉仕と純粋性

バガヴァンは、物質的な富などはまったく必要としていません。バガヴァンが必要としているのは純粋な愛のみです。愛を与え、愛を受け取りなさい。それが唯一の取り引きです。その愛によって、皆さんの人生を成就しなさい。愛よりも偉大な帰依はありません。どれほどささやかな奉仕でも、愛を持って行えばそれで充分です。もしあなたが、喉の渇いた人に、純粋な愛をこめてコップ一杯の水をあげるとすれば、それは素晴らしいことです。

2002年7月22日 国際セヴァ大会第ニ日目の御講話「欲望を慎んで神の近くに居るようにしなさい」

私たちは、自分の地位を誇りに思ってはなりません。財産や地位 によって生まれた力は頼りになりません。道徳性と純粋さのみが真の力をもたらすことができます。これらの特質を養うためには、私たちは無私の奉仕に携わらなければなりません。奉仕の精神はうぬ ぼれと利己主義を根絶やしにします。その過程で、あなたの人生が崇高なものになるばかりでなく、国家もまた献身的な公僕の手本によって利益を受けるのです。

1989年7月18日 グル プールニマ祭の御講話

執着のない仕事がもっとも純粋です。そのような仕事は心に、得意と失望という重荷を背負わせることがありません。

セヴァ 真のボランティア P.7

純粋な考えを育むことによって、無私の奉仕の精神が私たちの心の中に助長されます。

セヴァ 真のボランティア P.59〜60

真のセヴァは、純粋で愛に満ちた心からしか湧き出ることができません。

セヴァ 真のボランティア P.91

行動を通して、人間は意識を純粋にすることができます。実のところ、私たちは、このような目的意識を以て行動することを歓迎すべきです。それではどうして、純粋な意識を求めて努力する必要があるのでしょう? 汚染され、濁った水が入っているために、底が見えない井戸を想像してご覧なさい。水が浄化されて透明になれば、井戸の底を見ることができます。同様に、人間の心の中の、意識の奥深くに、真我があります。しかし、意識が清らかになったときにのみ、それを認知することができるのです。皆さんの想像、推測、判断、偏見、さらにまた、激情、心情、利己的な欲望などが、意識を濁らせ、不透明にします。それではどうすれば、一番奥底にある真我を認識することができるでしょう? エゴを喜ばせようという思いを一切持たず、相手の幸せのみを考えて行うセヴァを通 して、意識を浄化し、真我を顕現することができるのです。

セヴァ 真のボランティア P.217〜218

エゴを滅し、心を純粋な喜びで満たすためには、奉仕に匹敵する霊性修行はありません。

セヴァ 真のボランティア P.247

奉仕に必要な資格について考えてみますと、自惚れ、貪欲さ、妬み、憎しみ、競争心などに汚されていない、純粋な心が肝要であることがわかります。また、生命力、美徳、そして正義の源である神への信仰が必要欠くべからざるものであるということがわかります。

奉仕による修行 P.98

私たちが地上で生活できる機会そのものが、短期間のものでしかありません。それにもかかわらず、私たちは、肉体をいつまでも生かしておくために、次々とさまざまな試みを重ねます。これは愚かなことです。命の長さは神の意志によって決まります。地上での生命は、神が肉体から私たちを引き離すときに終わりを告げるのです。地上で生きている間の私たちの務めは、私たちのエネルギーを、他の人々に対する無私の奉仕にささげることです。こうするためには、私たち自身の意識と心とを純粋で愛に満ちた状態に保っておかなければなりません。あなたは、みずからの生活の中で神の愛を顕現していかなければなりません。無私の奉仕は神です。機会あるごとに、無私の奉仕をするように最善の努力をしなさい。立派な人格を持った人々と、神についての平安に満ちた心の暖まる会話をすることは非常に有意義なことです。あなたは、神は愛であるという信念と信頼とで、心を一杯にしていなければなりません。神は慈愛に満ちた方であるということを、決して忘れてはなりません。

サイババ イエスを語る P.114〜115

神への信愛とすべてのものにたいする至高の愛で満たされた心は、なんと清らかでしょう。そのような人々のみが、無私の奉仕をすることができるのです。

英知 P.52

皆さんが純粋な心で行うことであれば、それが何であれ、私は喜びます。私が望むのは皆さんの心の純粋さだけです。皆さんの心に純粋な愛があれば、どのような奉仕を行っても善いのです。

一体性の実践 P.39

どうして奉仕を通して自我が変容できるのか、と疑問に思うかもしれません。奉仕を愛で満たすことにより、その作業は神への礼拝へと変えることができるのです。仕事が神にささげられるとき、それは礼拝へと神聖化されます。それにより自我のない奉仕活動になります。また成功に対する欲望や、失敗に対する恐れといった世俗的な煩悩から逃れることができます。奉仕の仕事に最善の努力を払ったとき、礼拝が完全に行われたことになるのです。その礼拝を受けとめて、あなたにとって最高と思えるものを与えるのは神なのです。このような態度は奉仕の仕事から、自我に対する執着を取り去ります。この修行を規則正しく行うことが、意識を澄み切った純粋なものにするのです。そして更に意識の純化を促進させます。このような基本的な心の準備もしないで、どうして霊性の高みに昇ることが望めましょうか。過去多くの聖人たちは、自分たちの若い時代を意識を純化する修行に費やしています。どのようにあなたの仕事が期待されていようと、どのように心地よい生活の手段を備えていようと、また知性を活かしてどのように高い権力の座に昇ろうとも、すべての行動が、意識に内在する神聖な純粋さで満たされない限り、得るものはゼロに等しいのです。

サティア サイ スピークス 第10巻 P.94〜95

感覚のコントロールと純粋性

あなたがたは、自分の執着と憎悪(ラーガとドウェシャ)の感情、およびアハムカーラとママカーラ(「私」と「私のもの」)の意識の主な原因は食物にあるということを理解せねばなりません。あなたがたの食物習慣を規制することは、自分の心と理知の健康な機能にきわめて重要であります。心の働き方は実に謎が多いものです。聖典の判断は、人間が感覚の言いなりになると動物になるということです。人間が心によって導かれるときには、彼は人間らしい人間になります。ブッディに従って行動する人は偉大な人物になり、アートマに導かれる人はブラフマンになります。あなたがたがブッディに従うことができないならば、少なくとも心に従って、自分の人間レベルを保つようにするべきです。しかし、あなたがたの多くは、心そのものが悪い傾向に流れはしないかと疑い、もしそうであればどうやって心を信頼したらよいかと思っています。実をいえば、心はそれ自体が純粋なのです。心が不純になるのは、心が盲目的に諸感覚に従うことによってです。諸感覚が持ってくるものを無差別 に消費するのではなく、心が感覚の取り入れたものをすべて精査のためにブッディの前に提出し、ブッディの裁定に従って行動するならば、心は汚されることがなく、その原初の純粋さを保持するでしょう。

ブリンダヴァンの慈雨 P.150〜151

まず必要なのは、自分の内にはプラナヴァカーラ(オームの聖音の姿)として宇宙の音の中に顕れる神が内在している、という信念をもつことです。この信念を育むためには、不純な言葉を避ける必要があります。悪い言葉を話したり、悪い話を聞いたりする機会を与えてはなりません。しゃべりすぎは慎まなければなりません。無駄 話、人を中傷するような噂話、陰口は、きっぱりとやめるべきです。

バジャン 神への賛歌 P.329

愛は人類にとってもっとも大切なものです。あなたがどの国家や民族に属していても、あなたが裕福でも貧しくても、真理と正義には従わなければなりません。あなたの舌を、真実を語るためだけに使いなさい。神に与えられた手で、慈善行為をしなさい。聞くことのできる耳で、純粋な言葉だけを聞きなさい。これが人間の肢体の純粋性です。同じように、あなた方は五大元素の純粋性を保たなければなりません。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.21

不純なことを話すのはやめて、自分は純粋であると語りなさい。

プレーマ ダーラ P.52

神に対するあなたの帰依心を表現する最良の方法は、感覚のコントロールを達成することです。というのも、感覚は、一時的なものや派手で中身のないものへと突進して心を汚すからです。わたしがあなたがた一人ひとりに要求するものは、わたしがあなたに与えたままの心であって、それ以外の贈りものや、それ以外の高価なささげものなどではありません。わたしにその心をささげなさい。わたしがあなたに与えたときと同じ純粋な心を、わたしが満たしておいた愛の甘露がいっぱいにあふれている心を、ささげなさい。

1008の宝石 P.139

神聖さ、純粋性、信仰、普遍的な愛という性質を培いなさい。そうすれば神はあなたを慰め、元気づけ、救うために歩み寄ります! ハートの純粋さと感覚のコントロール、もしこの二つの資格を身につけたなら恩寵はあなたのものとなるでしょう。

1978年11月23日 御降誕祭での御講話

心は多くの幻惑を生み出し、人は真実を忘れてしまいます。心の本質を理解することは、いかなる人にとっても不可能に近いのです。蝿や蚊はあらゆるものに付着しますが、火の周りには決して近づきません。同じように、心は物質的事物に魅了され、どこへでもさまよい、常に神から遠ざかります。心は、純粋で、エゴがなく、常に神に焦点が定まっていなくてはなりません。これが真の霊性修行です。すべての霊性修行は、心をコントロールするために行われるべきです。

2002年8月21日 オーナム祭の御講話「我(アハム)はブラフマンなり」

一切の心の動揺が静まった結果として得られる平安を、常に体験していなさい。心があれこれと様々な事象を追いかけるのを許してはなりません。それを訓練して静かにさせておきなさい。外部世界との接触によって生じる心の反応から遠く離れていなさい。そうすればあなたは、サットと呼ばれる純粋な存在そのものになることができます。

至高の平安 P.92

思い・言葉・行動における純粋性

思いと言葉と行動が純粋であることこそが真の英知です。あなたは、それ以外のいかなる霊性修行も行う必要はありません。人々は、さまざまなサーダナ(霊性修行)を行います。しかし、それはただ、一時的な満足をもたらすだけです。一方、思いと言葉と行為が純粋であれば、あなたは永遠の幸福を味わうことができます。

2002年11月23日 77歳御降誕祭の御講話 「宇宙の主の言葉に耳を傾けて理想的な人間へと自己変革を遂げなさい」

英知とは何でしょう? 思いと言葉と行動の純粋さこそが真の英知です。あなたの肉体と心と行動は、純粋でなければなりません。このことに基づいて、「人間のなすべき研究は人間である」と言われています。それは、思いと言葉と行動の一致こそが、真の人間性であるという意味です。それは非常に単純で、容易に実践することができます。しかし、誰もこの方向で努力をしている人はいません。

2002年11月23日 77歳御降誕祭の御講話 「宇宙の主の言葉に耳を傾けて理想的な人間へと自己変革を遂げなさい」

善い仲間と共にあれば、善い思いを抱きます。善い思いを抱くなら、人生において善いことを聞くでしょう。善いことを聞くなら、善い行いをします。内なる感覚や観念を純粋にし、調和をはかるためには、この三つが不可欠です。それが人間性、人間らしさと言われるものです。人間のなすべき研究は人間です。人間についての正しい研究とは何でしょうか? 神聖な思い(意)、神聖な言葉(口)、神聖な行為(身)、これら三つすべてに調和があれば、内なる感覚は純粋になります。本当の神性はこの内なる器官が清浄になることにより顕れ出るのです。私たちは善い思いと感情、善い言葉、善い行為が一つとなるようにしていかなければなりません。この三つすべてが一致することにより、自分自身の神性に気づくことができるのです。ブッダはこの真理を悟り、至福を体験することができました。

1998年5月10日 ブッダ プールニマの御講話

我が国においては、花をささげ、16種類の奉仕を行うことによって神を礼拝する伝統があります。ところが、この通 常のありふれた礼拝方法よりも優れた、神への礼拝の仕方があるのです。その高度の礼拝方法とは、善良で純粋な想いと、善良で純枠な行動によって神を崇めることです。これは、はるかに優れた種類の帰依であるために、「パラ=バクティ」とも呼ばれています。そのようなやり方を身につけずに、花や物質的な品物だけを用いる、次元の低い礼拝ばかりを続ける人は、いつまでも低い段階のみに留まって、霊的道において先に進むことはできません。とはいえ、初期の段階においては、そのような礼拝の仕方は非常に重要であって、大変有益でもあるのです。しかし、この同じ初歩的な状態にいつまでも留まって、より高い段階へと進むことができないとすれば、それは善いことではなく、本当に不幸なことであると言えましょう。

SSOJ公式HP 「神に捧げる真の花」

あなたの身体と心を清潔に保ちなさい。清潔さは神です。あなたの思いと行動を純粋にしなさい。どの人に対しても甘く優しく話しなさい。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.11〜12

外面的な振る舞いや行動においても、霊的な感情を表すようにすべきです。そうすることにより、静寂と平安をより完全な形で体験することができます。なぜなら、その平安は、想い、言葉、身振り、行為を通 して味わうべきものだからです。平安がこの四つのすべてにおいて味わわれるときに、初めて完全な平安となるのです。言い換えればそのときナマス(心)は消失してしまい、純粋な平安、もしくは純粋なヨーガと呼ばれる状態に到達できるのです。

至高の平安 P.12〜13

誰が良きリーダーとなれるのでしょう? 思い・言葉・行いに調和のある人のみが、善良で有能なリーダーになれるのです。その人の思いは純粋で、その思いの源は欲望・怒り・執着・貪欲・利己主義・妬みとは何ら関係をもちません。彼は思ったことを語り、そこに裏表はありません。語ったことを実行し、そこに不誠実や偽善はありません。つまり、彼は言葉と行いにおいて包み隠しのない実直な人なのです。

サイの理想 P.247

聖なる思いと望みは、神聖な平安をもたらします。ですから善良で有益な感情と望みとを養いなさい。よこしまな人々との交わりと、よこしまな想いからは離れていなさい。純粋な思いと言葉、同期に対する私心のない奉仕を通 じて、人生の聖なる目的を達成しなさい。

仏陀 P.42

言葉、見るもの、聞くもの、思想、行動の汚染に結びつく五つの悪を除いたときに、あなたがたは自分自身の神性を実現し、パラマートマ(至高の魂)になることができるでしょう。

ブリンダヴァンの慈雨  P.23

学生諸君! 想念と言葉と行為における純粋さを達成するためにせねばならないことは、次の五つの戒めに従うことに尽きます。悪を思わず、善を思え。悪を見ず、善を見よ。悪を聞かず、善を聞け。悪を語らず、善を語れ。悪をなさず、善をなせ。あなたがたがこの五戒を自分の生命の呼吸として守るならば、あなたがたはアンターカラナの四つの欠点をすべて克服し、心とアンターカラナの他の三つの要素の純粋性を成就し、これによって言い表しがたい至福を体験できるようになるでしょう。

(注)アンターカラナ(内部の道具)
★アンターカラナの四つの欠点 (1)ブランティ(錯覚) (2)プラマダム(危険) (3)カラナ・アパータヴァム(道具の弱さ・無能力) (4)ヴィプラリプサ(嫉妬・羨望)
★アンターカラナの構成要素 (1)心 (2)理知 (3)記憶 (4)自我

ブリンダヴァンの慈雨  P.123〜124

エデュケアとは、人に生来内在している神性を引き出すことです。皆さんの口から発せられるいかなる言葉に対しても、それが皆さんの受けた「エデュケーション」の結果 なのか、それとも「エデュケア」の結果なのかを「Watch(ウォッチ、注意)」しなくてはなりません。今日、誰もこの「Watch」を実践していません。私はよくこの「Watch」という単語のつづりについて皆さんにお話します。この単語はW・A・T・C・H・という五つのアルファベットからなっており、それぞれが以下の言葉の頭文字を表しています。W:Watch your Words (言葉に注意しなさい)A:Watch your Actions (行動に注意しなさい)T:Watch your Thoughts(思いに注意しなさい)C:Watch your Character(人格に注意しなさい)H:Watch your Heart (ハートに注意しなさい)このように、言葉・行動・思い・人格・ハートに注意し続けることが本当のウォッチです。腕にはめているものがウォッチなのではありません。腕時計(リストウォッチ)は修理に出さなくてはならないかもしれませんが、「WATCH」という言葉は決してさびれることはありません。それは常に思い・言葉・行動を純粋にしてくれます。何と偉大な言葉でしょう! いにしえの教育は人をして崇高で高貴な存在となさしめる上で大きな役割を果 たしていました。

2002年11月20日 ディプロマ授与式の御講話「教育の真の目的 ─ 人格」

あなたがしなければならない霊性修行とは何でしょう? ハートを純粋にすることです。かつてティルトンダ・アルワールは、「心の純粋さが欠けている人は、ラーマの神聖な御名を唱える資格すらない」と言いました。穢れた心で神の御名を唱えても、それがいったい何の役に立つでしょう? こんにち、世界はあらゆる種類の汚染に悩まされています。人々の思いと言葉と行動もまた汚染されています。どうしてそのような人が神への愛を育てることができるでしょう? 今の人々は、帰依という「お面」をつけて他者を騙そうとしています。他者を欺いてはなりません。常に助け、決して傷つけてはなりません。これこそが、18のプラーナ(経典)の真髄です。他者を欺くことは、自己を欺くことと同じです。

2002年7月22日 国際セヴァ大会第ニ日目の御講話 「欲望を慎んで神の近くに居るようにしなさい」

感情、情念、衝動、態度、反応を浄化しなさい。それこそが、あらゆる宗教で定められている霊性修行の本質です。心と思いを点検しなさい。過ちの多い人間を求めてはなりません。純粋なるものだけを求めなさい。いかなる人の悪口をも言ってはなりません。だれをもはずかしめてはなりません。長所を見てその人を敬いなさい。あなたの行いに対する人々の嘆きは、あなたが息を引き取るとき心につきまとって離れません。

1008の宝石 P.97

食物における純粋性

ハートを純粋にするために努力をしなさい。このことにあなたの最大の努力を傾けなさい。ハートが純粋であれば、どのようなことでも成し遂げることができます。ハートを純粋にするには、神聖な食物を食べなければなりません。食物を調理する人は神聖な感情をもっていなければなりません。昔は、正統のブラーミンは、自分の妻が調理した食物にしか手をつけませんでした。その理由は、主婦は、家族全体の幸福を願って食事の準備をしたからです。一方、料理人を雇えば、彼らがどんな感情で食事を作るかは、神のみぞ知るところです! 料理人の不浄な思いが料理に入れば、それはあなたの心を毒します。アンナム ブラムハ(食事は神)です。ですから、食事は神聖な気持ちで調理すべきです。物理的な清潔さのみでは不十分です。心もまた純粋でなければなりません。料理に使う野菜は、正しい方法で手に入れたものであるように気をつけるべきです。例えば、夫が市場から野菜を持って帰ります。彼は、職権を乱用して、お金を払わずにそれを持ち帰ったのかも知れず、あるいは、小売り業者自身が、不正な手段でその野菜を手に入れたのかも知れません。そのような野菜を食べれば、あなたの心は汚染されます。あなたは、自分が食べる食物があなたの行動の原因であることに気づきません。不浄な食物は、人に神聖でない行動をとらせます。

2002年11月23日 77歳御降誕祭の御講話 「宇宙の主の言葉に耳を傾けて理想的な人間へと自己変革を遂げなさい」

食事を食べる前に、神聖なマントラを唱えなさい。そうすれば、あなたのハートには、神聖でないものが入ることはありません。「アンナム ブランマー、 ラソー ヴィシュヌフー、 ボクトーデーヴォー マヘーシュワラ」(食物はブラフマであり、エッセンスはヴィシュヌ、食事を摂る者はマヘーシュワラである)。この三つは、それぞれ肉体と心と行動に対応しています。

2002年11月23日 77歳御降誕祭の御講話 「宇宙の主の言葉に耳を傾けて理想的な人間へと自己変革を遂げなさい」

汚染された食物で諸感覚を満たしているのでは、ミルクと果 物を取るだけで純粋になることはできません。あなたがたは、五つの全ての感覚器官を通 じて純粋のサトワ的食物を摂取せねばなりません。

ブリンダヴァンの慈雨 P.23

人間の束縛の根本原因がアビマナまたはママカーラ(執着または「自分のもの」という所有感)とアハムカーラ(利己心)であることが明らかです。アハムカーラ(利己心)もママカーラ(執着心)も、不適当な食物を消費する結果 です。悪い種類の食物や、不正な手段で手に入れた食物は、いくつかの点で人間を無知の底に落とし、純粋な思いが浮かぶのを押えつけます。そのような人は、誰とどこで、いつ、どのように、何を話したらよいのかを忘れてしまうでしょう。

ブリンダヴァンの慈雨 P.147

今日、自らを帰依者だと思う人もそうでない人も、肉食を止めなければなりません。何故でしょうか? 肉食は動物的な性質だけを育てるからです。摂取する食物がその人の思考を決定すると言われています。様々な動物の肉を食べることによって、動物の性質を吸収しているのです。人間と同様に五大元素で維持されている動物を食べるとは、何と罪深いことでしょう! それは、動物に残虐な行為をするという罪を犯すだけでなく、人を悪魔的な傾向に導くものです。それゆえ、純粋に神の帰依者となることを求める者は、非菜食の食物を口にしてはなりません。

非暴力 P.30

静寂、清潔、そして寛容。静寂の中でこそ神の声を聞くことができますが、騒ぎの中ではできません。清潔でいることにより、あなたは清められます。寛容さによって、愛を育むことができます。あなたは今日、自分の家へとやってきました。ここはあなたの家でわたしのものではありません。わたしの家はあなたの心です。それゆえ、あなたは自分の家(アシュラムの中)以外で食事をとらないようにしなさい。この家であなたは、わたしが祝福した今日の食事、つまり「プラサード」をとることができます。

1008の宝石 P.67〜68

教育と純粋性

学生は純粋で優しい心をもっています。真実、正義、愛という人間的価値の重要性を教えるのは親の責任です。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.9〜10

教育の目的は、世俗的教育を成り立たせている単なる読み書きではありません。教育の目的は、純粋性と神性に達することです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.16

真の教育は 純粋な感性を育む
美徳を得ることが 学ぶことの真の意味
人間が愛という感情を培うとき 初めて平等になることができる
よい行いは、真の人間の証

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.28

我が校の学生は、揺るぎない心を育み、両親を幸福にします。彼らは幸福な人生を送ります。彼らのハートは純粋です。彼らは何ら悪い感情をもっていません。彼らは純金のようです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.97〜98

教師と生徒の間には、純粋な愛という絆があります。生徒は教師のハートをつかむことができ、教師も生徒のハートをつかむことができます。もしあなたが愛されたいのであれば、最初にあなたが他の人を愛しなさい。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.177

現代の学生たちは、理学修士、経営学修士、博士号といったさまざまな学位 を習得しています。しかし、彼らは自分の学識を社会の幸福のために使っているでしょうか? 彼らは頭に書物の知識を詰め込んで、試験会場に行き、頭を空っぽにするだけです。教育の目的やその内的意義を知ろうとする人は誰もいません。むろん、学生は聡明で高潔なハートをもっています。しかし、彼らは正しい指導を受けていないため、誤った道をたどっています。彼らに正しい道を示すのは、教師ばかりでなく両親の義務でもあります。学生に正しい道を示すほどの教育を受けなかった親もいるかもしれません。学校の教師はどうですか? 彼らは書物の知識を伝えることに専念し、学生の間に純粋性を育もうという努力をまったくしていません。それゆえ私たちは教育の真髄を理解し、それを実践に移し、至福を体験すべきなのです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.199

純粋性についてのサイの願い

神に到達したいと切望する純粋な心を神は探しています。この世は、人の手によって、単なる芝居小屋にまで引き降ろされてしまいました。神への信仰がわざとらしい演技となってしまったからです。心の奥底で泣きながら、人生を笑い飛ばしている人がいます。心の奥底で笑っていながら、人前で自分の運命を大げさに嘆き悲しんでいる人もいます。礼拝の行為は、観客へのよりいっそうの効果 を狙って演じられる芝居となり、そこに誠実さというものはまったく存在しません。

1008の宝石 P.69〜70

あなたがたのだれもが、幸せに暮らすために新しい家を健て、その中に神を安置することをわたしは望みます。わたしは、レンガとモルタルでできた家のことを話しているのではありません。善い考え、善い言葉、善い行い、善い交友、という家のことを言っているのです。こうした家でなら、あなたは静かに落ち着いて暮らせることでしょう。そのような家のグラハプラヴェーサム(新築の際に行う神への礼拝の儀式)にわたしを呼びなさい。わたしは喜んで応じることでしょう。実際、そのときすでにその家はわたしのものであり、わたしをそこに呼び入れるための招待状など必要ないのです。多くの家は世俗的な楽しみのためのものですが、この家は霊的な喜びのためにあります。純粋な、切望する心こそが、わたしの住む家です。

1008の宝石 P.115〜116

神に融合しようと喜び勇んでやってくるような純粋な魂たちを、神は好みます。一部の人たちは「ああ、ダサラ祭か。何十万もの人々があそこに殺到して、何十万ルピーもつぎ込むのさ」と言います。しかし、そのような憶測の示すものは「特別 な理由(ラクシュヤム)」ではなく、「怠慢(アラクシャヤム)」です! わたしの手は、プレーマ(神への愛)に満ちた清らかな心がささげられたときにだけ、それを受け取るために差し出されるのです。それ以外の場合はすべて、与えるのみであり、けっして受け取ることはありません。心に毒があり愛や奉仕に欠ける人たちに、恥を知って、今から自分自身らを浄める決意をさせなさい。

1008の宝石 P.159

神は、一人一人の人間が、純粋で汚れのない無私の愛の道を着実に歩むことを望みます。

サイババ イエスを語る P.92

あなたは「自分は純粋である」と公言するだけでは十分ではありません。他の人からもそう言われるようでなければなりません。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.18

私たちのオーガニゼーションでは、服装を揃えるだけでなく、心も揃えなければなりません。達成すべき基本事項は、心の純粋さです。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.155

あなたのハートを純粋にし、神の命ずるところに従いなさい。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.187

あらゆる外的な困難や心配事を歓迎しなさい。そのような状況にあったとしても、純粋なバクティ(神への信愛)もしくはヴェーダに従って生きなさい。

プレーマ ダーラ  P.47

善い性質と善い振る舞いを身につけた、純粋な心をもつ者へと変容していかなければなりません。

プレーマ ダーラ  P.63

勉強であれ、ゲームであれ、歌であれ、仕事で何かを始めるときであれ、何かをするときにはいつも、それに神聖さと純粋さを添えなさい。

サティア サイ メールマガジン「今日の御言葉」より

その他

純粋で、愛があり、帰依心のある人だけが真の人間です。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.13

決して悪い思いに機会を与えてはなりません。純粋に確信しながら「自分はすべてに内在する宇宙神である」と宣言しなさい。

真の教育−サティア サイ エデュケア講話集 P.80

女性には、純粋な無私の愛が生まれつき備わっています。

サイの理想 P.106

彼(キリスト)は、自分だけが救世主である、自分だけが真理であるとは決して言いませんでした。彼は、万人が真理と純粋さの化身であり、万人が神の子であると言ったのです。

一体性の実践 P.27

包容力のある愛と作意の純粋性、そして喜んで犠牲になる心――これらの三つはサトワの性質(浄性)の基準です。それらは、大切にすべき霊的身体の手足とも言えるものです。

仏陀 P.11

新年は宴会によってではなく、ハートの内に新しく純粋な思いを目覚めさせることにより注目されるべきです。

慈悲  P.61

ブッダはヴェーダを学習することにも、生贄をささげる儀式を行うことにも関心がなかったために、無神論者と呼ばれていました。これは完全な誤りです。ブッダは純粋な心をもっていました。

慈悲  P.87

神を祭る寺院や神殿は、人類の幸福のために建てられました。それらの神殿は、人間の心の純粋さを完成させるためにささげられたものです。

サイババ イエスを語る P.90

イエスは最初から純粋で私心のない、いつも愛に溢れた人でした。彼は自分のことを計算に入れず、自らのすべての行いを世の中のためにささげました。

サイババ イエスを語る P.103

人類を向上させるために神から遣わされた聖なる救い主たちは、神の本質と完全に一つになっています。彼らは、体験を通 して神の荘厳さの本質を知っているのです。彼らは、自分自身の存在の三つのレベルにおいて、はっきりと神を見ています。彼らの肉体からは、神の愛があふれています。彼らの心は、神の愛がほとばしり出ている川です。彼らは絶えず、神の無限の広がりである純粋な愛という究極的な意識に憩っています。

サイババ イエスを語る P.106

ヒマラヤ山脈がバーラタの北の境界線を形成しています。「ヒマ」という言葉は、「純粋で神聖な」という意味であり、山は着実さの象徴です。

1999年 ブッダ プールニマの御講話

チャイタニアは清らかな意識という意味であり、その対極にあるものはジャダすなわち無意識または不活発です。アートマンの英知はすべてのものを意識あらしめ、活発にします。ブラフマンは永遠の純粋意識です。

英知 P.36

皆さんの時間を純粋なものにすることこそが、真のサーダナ(霊性修行)です。

2000年 御降誕祭の御講話

清浄さと純粋さは教育のもっとも重要な側面です。学生の皆さんは、規則的な入浴・清楚で清潔な服装など、身の回りの衛生状態に気を配らなければなりません。「清潔さは神性」です。それゆえ、清潔で純粋でいなさい。

2002年11月20日 ディプロマ授与式の御講話「教育の真の目的−人格」

 

※この御言葉集は、2004年「純粋性」の年のサーダナキャンプ用に準備されたものです。


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