「癒しの寺院」で最初に恩恵を受けた少年

       

20年間にわたるシュリ・サティヤ・サイ高等医療機関においての

無私の奉仕を記念して


 二十年以上前、バガヴァンは御講話の中で、一般大衆に向けてある奇跡を約束されました。それは、最先端の第三医療(特別な専門家による医療)の治療を提供するスーパー・スペシャリティー・ホスピタル(高度専門病院)をプッタパルティに設立するということでした。一番近い都市から約160kmもあるこの村に、そのような高度な病院を造るということは、叶えることも不可能な夢のように思われました。バガヴァンは更に、その病院では治療費はいっさい無料であると言われ、皆を驚かされました。これだけが奇跡の理由でしょうか? いいえ、それだけではありません。何十年もの間、荒涼とした原野で計画を発表された時ですら手つかずのままであった建設予定地に、バガヴァンは、一年後に大建造物が築かれるだろう、とおっしゃったのです。建物だけではありません。一年後のその日には、最初の外科手術が行われるだろう、ともおっしゃいました。時間そのものがこの純粋な愛の奇跡を見守っていました。それ以来、プッタパルティの村のシュリ・サティヤ・サイ高度専門病院では、多くの画期的な出来事がありました。この人類に対する神の贈り物は、今年で二十年目を迎えます。

 何万人もの人々が、この癒しの寺院を訪れ、健康を取り戻して帰って行きました。これまでに、プッタパルティにあるこのバガヴァンの高度専門病院では、約一万四千件の手術が実施されました。永遠に続く旅には第一歩目の始まりがあります。この恩寵を受けた人々の長いリストも、心臓に小さな穴があいていた幼い少年から始まりました。このハート(心臓/心)がタッチ(手を触れられた/感動した)されてから二十年の年月が経ちました。

 サティヤ・サイ高度専門病院が開設された日に手術を受けた時、ヴィジャイ バスカールは十四歳でした。ヴィジャイは今、両親と妻、そして、二人の子どもたちと共にアナンタプール市に住んでおり、ババとババのために働いた人々から愛を一身に受けた体験を思い出し、大変感謝しています。

 私は祝福されています。スワミは私に命を授けてくだったお方です。スワミは私の命に新しい契約期間をくださいました。スワミが私にしてくださったことに対し、いくらお礼をしても、しきれるものではありません。

 1991年に、初めて私は心臓に問題があると診断されました。家族の誰一人として、私の心臓に問題があることを知りませんでした。

 私は当時、よく失神する発作を起こしており、呼吸が苦しくなり、病気がちでした。私たちは最初、アナンタプールの地元の医者に診てもらいに行きました。その医者は、私の心臓に何か欠陥があり、検査のためにスキャン(断層写真)を何枚か撮るように言いました。私たちは言われたとおりにしました。検査の結果、私の心臓には穴があいており、手術が必要だと医者は言いました。

 その後、私は叔父に連れられ、ハイダラーバードの病院に行きました。そこの医者は、症状は非常に深刻だと告げ、「直ちに手術を受ける必要がある。遅らせると、命に関わる危険性がある」と言いました。それが病院の診断結果でした。しかし、それ以上にショックだったのは、手術にかかる費用でした。二十万ルピー近くもかかるということでした。

 そのような金額は私たちの家族にとって、考えもつかない額でした。ですから、なす術もなく、私は静かに、希望もなく苦しみ続けていました。


隣人が解決法を教えてくれる

 そして、今度は奇跡が起こったのです。近所に住む人々の中に、退役軍人で、ババの熱心な帰依者であるマハーナンダ レッディーという人がいました。マハーナンダさんは私の窮状を知り、ババが最新技術の整った病院をプッタパルティに建設中であることを教えてくれました。「そこへ行って聞いてみたら良い。君はそこで治療してもらえるよ! 」と熱心に勧めてくれました。

 私たちはマハーナンダさんの助言に従いました。それは、1991年の10月も終わりに近づいた頃でした。私たちが訪れた時、スーパー・スペシャリティー・ホスピタルはまだ工事中だったので、私たちは、プッタパルティのシュリ・サティヤ・サイ総合病院(アシュラムに隣接する病院)へ行くように言われました。

 診察してくれたバガヴァット医師は、一目見て、すぐに入院するように私に言いました。その時、マハーナンダさんと私の叔父が一緒に来ていました。

 しばらく入院している間に、私は新しく建設中のスーパー・スペシャリティー・ ホスピタルで手術を受ける予定であることに気付きました。とはいえ、自分がババの新しい病院で最初の患者になるとは思いもよりませんでした。

神なる母からの促しを受けた母のような看護

 20日間、私は総合病院に入院していました。私の病状は良好とはいえず、医者たちは私に対する手術の準備をしていました。この間中、看病してくれた看護婦やスタッフの愛のこもった看護は忘れることが出来ません。彼らは毎日来て、毎食私が何を食べたいか、何か他に欲しい物はないかと聞いてくれました。彼らは、母親が自分の子供を世話するように私の世話をしてくれた、としか言いようがありません。

 これとは別に、入院期間に私が目撃した大変感激した出来事があります。非常に体力の衰えたひ弱な一人の老人がいました。老人は自分では何も出来ない状態で、自分の身体を動かすことすら出来ませんでした。そこで病院のセヴァダル(奉仕する人)が老人を世話した様子は、注目に値する素晴らしいものでした。ボランティアはその老人に食事をさせ、入浴の用意をし、排泄の助けをしていました。実際、これは私が最初に体験したサイの愛でした。このボランティアはその老人に、両親でさえ子どもにここまで出来ないような世話をしていたのです。それを見て、私はスワミの施設で治療されることがどれほど幸運なことかを思い知らされました。

 実を言うと,まだ子どもだった私は、手術がどんなものか全然知りませんでした。私の胸が切り開かれることも知りませんでした。ですから、私には手術に対する恐怖もありませんでしたが、叔父は大変心配していました。そして、素晴らしいことが起こったのです。

神ご自身による愛と気遣いと保証

 数日後、スワミが総合病院に来られ、私に話しかけてくださいました。スワミは、自分がいつも私と共にいるから心配することはない、と安心させてくださいました。スワミは愛情を込めて、私の頬を指でつねられました! ああ、すごい! この思い出は永遠に私の中にあります。
 何日かして、権威ある先生方の中で、私か、私と同じような問題を抱えている別のマハーラーシュトラ州から来た少年か、どちらを新しく開業する病院の第1号の患者にするかを決める会合が持たれたことを聞きました。ほどなく、私が選ばれたことを看護婦から聞きました。

 手術を受ける二日前の11月19日、私は、スーパー・スペシャリティー ホスピタルの心臓外科の病棟に移されました。ここの看護婦たちも、総合病院と同じように愛情を込めて看護してくれました。

 1991年11月22日、病院の落成式の日、私は手術室に運ばれました。突然、スワミが来られるのを見て、私はすぐにベッドの上に起き上がりました。実は、私はすでに麻酔を注射されていたので、しっかり座ることが出来ませんでした。私はゆっくり後ろへ倒れていきました。しかし、スワミが急いで私の方に駆け寄り、私がベッドから落ちるのをやさしく止めてくださいました! そしてババは、横になりなさいと言われ、御手を私の頭の上にのせて、すべてはうまく行くと断言してくださいました。スワミのすぐ隣には、当時のインドの首相、P.V. ナラシンハ ラーオ氏が立っていました。スワミは実際、手術室の入り口まで私について来てくださいました。

 手術室の中で顔にマスクをつけられ、私はすぐに意識を失ってしまいました。次に私が覚えているのは、医者が私の名前を呼び、「起きなさい、起きなさい、手術は終わった。もう君は大丈夫だよ! 」と言っていたことです。そのとき、私は自分の胸の傷に気がつきました。私は集中治療室にいました。私はスイートポンガル(豆と米を煮たもの)を食べさせてもらい、すぐに心臓病棟に移りました。

 手術の傷跡の抜糸の時、私はひどく痛むだろうと思い、少し怖がっていました。しかし、その当日、一人の医者がやって来て少し会話を始めました。医者は私に色々なことを尋ね、その途中で「これでよし、君の抜糸は終わったよ! 」と言いました。全然痛みは感じませんでした。

 一週間後、私が病室にいると、スワミが再び会いに来てくださいました! それは素晴らしい、天国にいるような体験でした。私はベッドから起き上がり、スワミと一緒に歩き始めました! そして、歩いている時、スワミはヴィブーティ(聖灰)を物質化して、私の手にのせて下さいました。スワミはその同じ御手で、また私の頬を愛情深くつねられたので、頬にビブーティの跡が残りました。幸いなことに、誰かがその瞬間をカメラに収めてくれたので、今日に至るまで、その様子と撮られた写真は、私の最も価値のある所有物となっています。

 私は20日間ほど病院で過ごしました。そこでは、約七人の他の患者が同じ時に手術を受けていました。同じ日に受けた者もあり、何人かは次の日に受けました。これらすべての患者たちに注がれた愛には、ただただ感激するのみです。

忘れられない思い出と感動となった小さな行為の数々

 私が病院に滞在している間に起こった、忘れられない二つの出来事をお伝えしたいと思います。病院の食事は処方された食事に従って出されます。ですから、その多くは味気ないものが多いのです。ある日、看護婦長が私に何を食べたいかと聞きました。私はチンナカヤ パッチャディ(ピーナッツのチャツネ)が食べたいと言いました。婦長はアーンドラ・プラデーシュ州の出身ではなかったので、私が何の事を言っているのかわかりませんでした。それで、婦長は私の欲しいものを理解するために、テルグ語を話す別の看護婦を連れて来てくれたのです。そして、次の食事のとき、その料理が出てきました! 看護婦長が自らすりこぎを使ってピーナッツを挽いてくれたのだと、後で別の看護婦から聞いて、私は鳥肌が立つ思いがしました!

 また別の日、私が食事をしていると、ある料理が私には辛すぎて吐き出しそうになりました。一人の看護婦がその様子を見て、すぐに自分の手を差し出し、その上に吐き出すように言いました。その時まで、そのような愛情を持って面倒を見てくれる人がこの世にいるとは考えもつきませんでした。そこで受けた愛情は、自分の母の愛より大きかったことを認めざるを得ません。それは、私だけではありません。そこにいたすべての患者は、同じ愛を受けていたのです。

 退院出来るくらい私が回復したとき、医者は、これからは他の人と同じ普通の生活が送れると言いました。私は何でも食べることが出来ましたが、六ヶ月間、アイスクリームだけは禁止されました。そして、完全に回復するまでは重いものを持ち上げてはいけないと言われました。

ある敬虔な切望、そして神の恩寵

 退院する前、私の心に一つの欲望がわき上がりました。私はスワミのダルシャン(神聖な存在を見ること)を受けたいと思ったのです。そこで、私のために特別な手配がなされました。1991年の12月20日、私がバジャンホールに連れて行かれた時、ちょうどバジャンが終わったところでした。 当時、スワミはプラシャーンティ・マンディール(寺院)の上階に住んでいらっしゃいました。その計り知れない愛から、スワミは階段を下りて来られ、私のそばに立ってくださいました! 私は跪き、スワミに一輪のバラを差し上げました。そして、パーダナマスカール(御足に礼拝すること)をお願いしました。スワミはやさしく衣の裾を持ち上げ、私は御足に触れました。私の心は満たされました。私は完全に満たされた気持ちで家に帰りました。

 入院していた一ヶ月間は、本当に私の人生において最も思い出に残る期間でした。私は自分が最高に祝福された人間であると思います。わずかな者しか体験出来ないであろう、あのような愛と看護を受けて、私はスワミに永遠に恩義を感じ続けることでしょう。

 私が元気で帰って来たのを見て、家族は当然のことながら大変喜びました。実際、退院して一週間後に私はクリケットをしたのです。しかし、母が心配したので、それは止めることにしました。

 手術を受ける前、私の胸は膨れ上がっていました。このことから、友人たちにあだ名を付けられ、からかわれていました。しかし、手術の後はその膨らみもなくなりました。そして、私は食事を楽しむことも出来るようになりました。私が今ではどれほど太ってしまったか、見ることが出来るでしょう!

 私は結婚し、二人の小さな娘にも恵まれました。一人は五歳で、もう一人は一歳になったばかりです。

 私はシュリ・クリシュナデーヴァラーヤ大学の図書館の司書助手をしています。そして、一つ言わせて頂きたいことがあります。今でも私には、二十年前にスワミが私にしてくださったような手術の費用を払う余裕はありません! そして、私のような数多くの人々が、スワミの愛によって恩恵を受けてきました。誰にとっても、スワミに報いることなど、想像すら出来ないことなのです。

ラジオサイ ジャーナル”Heart 2Heart”、2011年11月号より


http://media.radiosai.org/Journals/Vol_09/01NOV11/06_bhaskar.htm





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