バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババ
永遠の伴侶

       

ナレンドラナート・レッディー博士

 
 バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババ様は、サルヴァ デーヴァター スワルーパ、すなわち、すべての神の名と姿の化身です。またババ様は、サルヴァ デーヴァターティータ スワルーパ、すべての名と姿を超越した神でもあります。ババ様は一者の中のすべて、すべての中の一者、すべてのすべて、そしてすべてを超越したお方です。私は計り知れない神秘を探求しようとしたり、バガヴァン ババ様の実体を説明しようとしたりしているわけではありません。過去数十年間に亘り、ババ様が私や私の家族に注いでくださった無限の愛を、ささやかな方法で分かち合いたいのです。

 かつて、私はスワミの愛と恩寵のすべてに感謝を示す方法を祈り求めました。その時、慈悲深い主はテルグ語でこうおっしゃいました。 "Premanu Panchuko,Penchuko"それは、「神の愛を他の人々と分かち合いなさい、そうすればその愛は広がるでしょう」という意味です。

プッタパルティ − 聖地の中で最も聖なる地

 プッタパルティは聖地の中で最も聖なる地です。それはヴィシュヌ派の信者にとってはヴァイクンタ(ヴィシュヌ神の住居)、シヴァ派の信者にとってはカイラーサ(シヴァ神の住居)、ユダヤ人にとってはエルサレム、キリスト教徒にとってはヴァチカン、シーク教徒にとってはグルドワーラー、イスラム教徒にとってはメッカなのです。私たちは、スワミがどのようにしてイスラム教徒にメッカのヴィジョンを、キリスト教徒にイエスのヴィジョンを、仏教徒に仏陀のヴィジョンを、アドヴァイティン(不二一元論者)にブラフマンの体験を与えられたかについて、沢山の話を聞いてきました。スワミは私たちの間をお歩きになり、神聖で甘美なメッセージを与え、言葉巧みに説得し、慰め、励まし、私たちと共に笑い、共に歌い、共に遊んでくださいました。ここにあるすべての木々に、すべての茂みに、すべての石に、すべての塵に − それどころか、このプッタパルティの聖地のあらゆる原子や細胞に、バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババ様の神聖な愛と祝福が染み込んでいるのです。

 2011年3月6日、私はヤジュル・マンディールで、2011年5月17日、18日のブッタプールニマー祭を祝福し、許可してくださるようバガヴァンに祈りました。11カ国の仏教徒の帰依者たちが、プラシャーンティ ニラヤムでサイ ブッダに敬意を捧げることを望んでいたのです。スワミは快くその祝祭の許可を与えてくださいました。また、2011年8月にプラシャーンティを訪れたいと望んでいた、アメリカ合衆国の青年部の巡礼パンフレットもお見せしました。スワミは神聖なご指示を与えてくださいました。
「今年の11月の私の誕生日に来るよう、青年たちに伝えなさい」
これは、スワミがプラシャーンティ ニラヤムにいらっしゃり、そこで私たちを祝福し続けてくださるということを示しています。

バガヴァン ババはデーハではなくデーヒ

 マーヤー(迷妄)や無知に惑わされ、私たちはスワミが逝ってしまわれたと考えています。スワミは決して私たちから離れないと保証されたのですから、実のところ、私たちは取り残されてしまったわけではありません。スワミは常に、ご自分はデーハ(肉体)ではなくデーヒ(内在者)であると強調なさっていました。最近、私は祝福されて、幸運にもこのスワミの言明の目撃者となりました。
 2011年4月、スワミが病院に入院されていた間、私は医療チーム団の一員としてスワミにお仕えする機会をいただきました。ある日、私はスワミに感謝の気持ちを伝え、世界中の祈りと、世界中のすべての帰依者たちの熱烈な愛についてスワミにお伝えしました。スワミは優しい笑顔でお応えくださいました。先輩医師の一人が、スワミが苦痛を感じていらっしゃるかどうかを知りたがりました。スワミは、自分は苦痛ではなく至福の中にいる、ときっぱり断言なさいました。あのような状況の中で、これほど深遠な言葉を語ることができるのは、肉体意識を超越なさっている神だけです。

 バガヴァンのマハー サマーディ(ご遷化)の一週間後、2011年5月1日に、私は自分の患者たちを診療するためアメリカに戻る予定でした。夕方のプログラムに参加した後、私はサマーディ(お墓)で祈りを捧げ、スワミから出発の許可をいただきました。部屋に着くやいなや、突然、肩甲骨と腹部の間を激しい痛みが襲いました。これほど激しい痛みに襲われたことはかつてなく、座ることも、立つことも、横たわることもできませんでした。私は医者でしたので、さまざまな診断の可能性が思い浮かびました。心臓発作、解離性動脈瘤、急性膵炎のような起こり得る最悪の医学的非常事態を考えました。4、5時間のあいだ、身もだえするような痛みに苦しみました。妻が航空会社に電話をかけて、帰国の旅をキャンセルしました。その後、痛みは我慢できる程度になりました。スワミが、もうしばらく私にプラシャーンティ ニラヤムに留まるよう望んでいらっしゃるような気がしました。

 翌日、検査を受けるためにプラシャーンティ グラム(村)にある シュリ・サティヤ・サイ高度専門病院に行きました。心電図、胸部X線、超音波心臓診断図、胸部のCT、腹部のCTと超音波検査、血液検査が行われました。血液検査の結果、私の肝機能は著しく異常であることがわかり、腹部の超音波検査は胆嚢の炎症を伴う胆石があることを示していました。このような症状の場合、通常の医学的なアドバイスは外科手術を受けることです。

 バガヴァンの恩寵により、痛みは治まり始め、二日間で完全に消えてしまいました。帰途の旅を遅らせたおかげで、私は5月4日にプラシャーンティ ニラヤムで行われた、バガヴァンの アラダナ マホーッツァヴァ〔再び降臨してくださるよう祈る祭式〕に参加する好機を得ました。スワミの遊戯の聖なる御手を感じました。スワミは世界中から来た帰依者たちと共に、私がスワミの使命と愛のメッセージを分かち合う、この重要な機会を逃さないようにしてくださったのです。

 その夜、私はアメリカへ帰るために空港へ向かいました。私の家族には医者が多いため、家族は旅行中に私がまた同じ発作に見舞われるのではないかと心配しました。私はバガヴァンに全託し、帰りの旅の計画を再開しました。バガヴァンの恩寵のおかげで、この旅の間も、アメリカに戻ってからも、症状はまったくありませんでした。

 顧問医師の助言に従って、私は血液の追跡検査と、腹部の超音波テストを受けました。驚くなかれ! 腹部の超音波は、胆嚢には胆石など一つもなく、まったく正常であることを示していました。血液検査は、肝機能が完全に正常であることを示していました。私たちは、聖なる外科医、最愛のスワミ、ずば抜けて優秀なこの医師の保護の下にいるのではないでしょうか? この出来事は、スワミがマハーサマーディの後も、引き続きどのように私たちを世話し、守ってくださっているかを示しています。スワミはかつて私たちと共にあり、今も私たちと共にあり、永遠に私たちと共にあることを確信しましょう。必要なのは、信仰と忍耐(ニシタとサブーリ)だけです。

無限の愛と慈悲

 2011年1月、糖尿病と高血圧を患っている母が発作に見舞われました。退院後、母は嚥下障害のために、食べることも飲むこともできなくなりました。さまざまな方法を試みましたが、何の役にも立ちませんでした。母の体重は減り、医者はこの分では母があまり長く生きられないだろうと考えて、小手術をして胃に管を入れるGチューブの取り付けをするよう提案しました。2011年3月4日、その手術を進めるため、私はスワミに祝福を祈りました。スワミは祈りに応えてくださいました。
「お母さんは手術を受けなくてもよろしい。私が彼女の世話をしましょう」
何の手術もせず、神の恩寵だけで、母が現在もドーサのような好物を含め、普通に食べたり飲んだりできるのは、医学的に見れば驚くべきことです。

 私たち一家は、スワミから恩寵を頂いたある特別な出来事を永遠に忘れることができません。家族でインタビューを受けた時、スワミは私の長女に、スワミが彼女の結婚式を執り行い、結婚式の間に演奏する吹奏楽団も手配してあげようとおっしゃいました。その時、長女はわずか12歳ほどでした。

 1995年6月8日、ホワイトフィールドのブリンダーヴァンにあるカッリャーナ マンダパム〔結婚式場〕において、スワミは恵み深くも長女の結婚式を大規模に執り行ってくださいました。食事の手配、メニュー、僧侶、来客用の宿泊設備、結婚式場の飾り付けに至るまで、細部にわたってすべての世話をしてくださったのです。どのテーブルクロスが使われるべきか、給仕人はどのような服装をすべきか、給仕人は来客に給仕するとき手袋を着用すべきである、といった些細なことまで、スワミご本人が自ら関心を寄せてくださいました。

 結婚式の当日、スワミは式の間中ホールにお座りになり、絶えず私たちを導いてくださいました。スワミは周りに座っていた人々に、ヒンドゥー教の結婚式の霊的意義を説明なさいました。スワミはとても愛情深く、マンガラスートラ(神聖な結婚を示すネックレス)を物質化してくださいました。それから舞台にお上がりになり、新郎新婦と家族全員を祝福してくださり、写真撮影のためにポーズを取ってくださいました。

 嬉しい驚きだったのは、結婚式の当日、スワミが式の間に演奏する吹奏楽団の手配もしてくださったことでした。後日スワミは、以前、娘に結婚式の吹奏楽団について約束なさったことを、私に思い出させてくださいました。私たちはスワミの愛に感服しました。たとえ皆がスワミのおっしゃった言葉を忘れていても、我らの慈悲深い主は、決してお忘れにならないのです。なんと素晴らしい、スワミからの「思いと言葉と行動の一致」に関する教訓だったことでしょう!

全知の神

 バガヴァン ババ様の中には、非真から真理へ、暗闇から光へ、死から不死へと私たちを導く、全世界の教師、神なる教師、教師の中の教師がおられます。かつて、私はスワミに尋ねました。「もし人生が夢であるならば、神もまた夢の一部なのでしょうか? 」と。ただちに真理の神から、神は四つの状態すべてに存在する、という答えが返ってきました。四つの状態とは、目覚めの状態、夢見の状態、熟睡状態、トゥリーヤ(熟睡を超越した状態)です。そのようにして、スワミはご自身が、至高の、属性も形も持たないブラフマン〔神〕であることをお示しになったのでした。

 スワミはおっしゃいます。"Mee intane,Ventane,Jantane,Kantane Untanu"スワミは私たちの家におられることを保証してくださいました。スワミは私たちと共に、私たちの上に、私たちの下に、私たちの後ろに、私たちの前に、私たちの内に、私たちの外にいらっしゃるのです。私たちの多くは、スワミの全知と遍在を経験してきました。

 私たちがどこにいようとも、スワミはいつも私たちのすべてをご存知です。娘と私は、アメリカの自宅で家族の困難な状況について話し合っていました。私は娘に言いました。
「私たちは皆、自分のカルマ(行為の結果)を返済しなければならないが、スワミの恩寵によってその困難に耐える強さを持つだろう」
 次にプラシャーンティ ニラヤムを訪問した際、スワミは私たちをインタビューにお呼びになりました。私は愛するスワミに家族の状況について話し、スワミの恩寵に感謝申し上げました。スワミはおっしゃいました。
「けれども、あなたは娘に、自分のカルマを返済しなければならないと言いました。これは正しくありません」 そして、スワミはお続けになりました。
「私の恩寵は、山のようなカルマを一瞬にして焼き尽くすことができます。一本のマッチの火が、数トンの綿をたちまち焼き尽くすように 」

 私にとって、三つの教訓がありました。
 第一の教訓は、恐れを持つのではなく完全な信仰を持つ、ということでした。スワミはおっしゃいます。「私がここにいるのになぜ恐れるのか? 」と。
 第二の教訓は、もしスワミに全託すれば、スワミは恩寵によって一瞬のうちに私たちのカルマを滅ぼすことができる、ということでした。
 第三の教訓は、スワミの全知、遍在、全能を思い出させてくれたことでした。私たちがどこにいようとも、スワミは私たちのすべての思考、すべての会話、すべての夢、すべての行為、何もかも一切をご存知なのです。スワミは私たちの過去、現在、未来をご存知なのです。

御姿に制限はない

 肉体的な制限がないため、スワミはご自身の意志によってどこにでも御姿を現されます。カリフォルニア州のタスティンにあるアメリカのサティヤ サイ ブックセンターは改築中であり、多くの労働者たちが雇われていました。ある日、労働者たちのグループが空調装置を取り付けるため、ブックセンターへやって来ました。翌日、労働者の一人が、サイのボランティアたちに言いました。「あなた方のボスが来られて、仕事を監督され、私たちに質問されていましたよ」 その労働者は、ブックセンターにあるスワミの大きな写真を指差して、あの人がここへ来て仕事を監督した人だ、と述べました。ブックセンターのボランティアたちは、スワミが労働者たちにダルシャンをお与えになったことに驚き、嬉しく思いました。

 ある日、私はスワミと一緒に車に乗っていた時に、この出来事をお話しし、次のように言いました。
「スワミ、あなたは、あなたのことをまったく知らず、帰依者ですらない労働者たちのところへ行かれて、彼らにダルシャンをお授けになったのですね」
 スワミは皮肉を込めておっしゃいました。
「彼らが私の帰依者ではないと、どうしてあなたにわかるのですか? 」

 それゆえ私たちは、誰が帰依者であり、誰が帰依者ではないかを判断すべきではありません。神のみがご存知なのです。

 バガヴァンは、プッタパルティの砂の上をお歩きになり、私たち皆に、天界の神々ですら切望するダルシャン、スパルシャン、サンバーシャン(見ること、触れること、会話すること)をお授けくださいました。しかし、スワミはあの美しく魅惑的な人間の御姿だけに限定されているわけではありません。もし、帰依者が絶対的な信仰と一点集中した帰依心を持ってスワミを避け所とし、呼び求めるなら、どこであれスワミはその帰依者の前に御姿を現されるでしょう。中途半端な帰依心しか持たない者は、長年、あるいは何度生まれ変わってきて霊性を実践しても、ゴールに到達できないかもしれません。溺れかけている者が空気を吸おうと渇望するように、人は神への熱烈な愛を抱くべきなのです。かつて、私はスワミにお尋ねしたことがあります。
「スワミ、自分が帰依心を持っているかどうかは、どうすればわかるのでしょう? 」
当意即妙の答えが返ってきました。
「人は神に熱烈な憧れを抱くべきです。もし神への熱烈な愛を持っていれば、あなたは帰依心を持っているのです」

 スワミ、私たちはあなたの御前で体験した愛を描写する言葉を持っておらず、あなたの神聖な栄光を理解することもできません。ただ私たちは、どうかあなたの帰依の恩恵を私たちにお授けください、と祈ることができるだけなのです。

出典:『サナータナ サーラティ』2011年11月特集号




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