霊性部
ブッダ プールニマ御講話
今回は、今年の5月に行われたブッダ プールニマにおけるスワミの御講話の一部をご紹介します(1999年5月30日 ホワイトフィールドにて)。
仏陀は、この聖なるバーラタ(インド)の地に生まれました。彼は、世界に対して、『アヒムサ パルモ ダルマ』(非暴力こそが最高の法である)と宣言しました。仏陀は何年も苦行を重ね、多くの高貴な魂たちに会い、霊的講話を聞き、様々な教典を学びました。しかし、彼は満足できませんでした。
人間は至福を求めます。でも、どうすればそれが得られるのでしょう? 信仰があるところには愛があります。愛があるところには平安があり、平安があるところには真理があります。真理があるところには神がいます。神がいるところには至福があります。霊性の道は信仰から始まり、至福で終わります。至福は、物質的な快楽や世の中の人々によって得られるものではありません。至福は、5つの感覚が正しく使われるようになって、初めて得られるものなのです。
今日人々は、至福を得ようとして聖典を読みますが、このような書物には、書物としての限界があります。私たちは、聖典を研究することによって、無限の至福を得ることはできません。無限の至福を得るためには、『無限の書物』を読まなければなりません。この世界そのものが『無限の書物』です。この世界には、学ぶべきことが実にたくさんあります。
皆さんの友達は誰ですか? 同学年や、同室の友人などではありません。神だけが、皆さんの真実の友であり、永遠の友なのです(拍手)。皆さんは、この神という友達の助けを得たときに、初めて『無限の書物』を研究することができるのです。
私たちが、この『無限の書物』の研究に携わるときは、仏陀の5つの重要な教えを実践しなければなりません。それは、正しく見ること・正しく感じること・正しく聞くこと・正しく語ること・正しく行動することの5つです。 真の人間とは、真理の道をたどる人のことです。『真理』と『正義』と『犠牲』こそが、私たちの生き方でなければなりません。
仏陀は、「ブッダム シャラナム ガッチャーミー、ダルマム シャラナム ガッチャーミー、サンガム シャラナム ガッチャーミー」と言いました。それは、理性(ブッディ)は正義(ダルマ)の道に従うべきであり、正義は社会の中で育てられるべきであるという意味です。そうして初めて、国家は繁栄するのです。このことは、SAIという言葉の内的な意味でもあります。Sは霊的(Spiritual)変革を意味します。Aは社会的(Association)変革を、Iは個人的(Individual)変革を意味します。人間の心は、これらの3つの変革が起きたときに、初めて純粋で神聖なものとなるのです。
すべての人の内に神が宿っています。しかし今日、人間は自らの神聖な特質を忘れてしまい、その場限りの世俗的な快楽に惑わされています。真理・正義・平安・愛・非暴力こそは、人間の生命の5大原則に他なりません。それらは、人間の5つの生気、すなわち、プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナという5つの生気にたとえることができます。もし人が真理を失えば、生気の一つを失うことに等しいのです。そしてもし、真理・正義・平安・愛の4つを失えば、生気の5分の4を失うのと同じです。その結果、人間はあらゆる方面で、苦痛や暴力に直面します。このような状況はいったい誰の責任でしょう? 人間自身がその責めを負わなければなりません。
仏陀は、非暴力こそは最高のダルマ(法・正義)であると言いました。非暴力が実践されて初めて、愛が養われます。愛が養われていれば世界に平安が訪れます。世界に平安があるとき、人間はおのずから正義の道をたどります。人間が正義の道に従えば真理が得られます。ですから、万人にとって、この5つの生命原則を守ることこそが、最も大切な義務なのです。
仏陀が霊的な講話をしながら、村々を歴訪していたときのことです。ある日仏陀は疲れを覚えたので、弟子の一人に、仏陀に代わって村の人々に法話を聞かせるようにと言いました。仏陀は家に入って休みました。
その弟子は、法話の中で、「私たちの師である仏陀様よりも優れた霊的大師は、これまでこの世には顕れたことがありませんでした。そして、この先ずっと仏陀様に匹敵する方は決して顕れません」と言いました。聴衆は、割れるような拍手をしました。この騒ぎを聞いて、仏陀が出て来ました。弟子の一人が、なぜこのように群集が喜んで手を叩いているのかを説明しました。
仏陀は微笑んで、この法話を行った弟子を呼びました。そして、「お前は何歳になる?」と尋ねました。弟子は35歳ですと答えました。仏陀は再び、「お前は、これまでに幾つの王国を訪れたことがあるのかね?」と訪ねました。弟子は、2つの王国に行ったことがあるだけですと答えました。すると仏陀は言いました。「お前は35歳で、2つの王国しか見たことがない。したがって現在すらも完全に理解していない。そうであれば、どうして過去や未来に関して何かを語ることができるだろうか? 仏陀のような先生は過去に生まれたこともなければ、将来も決して顕れることがない、という発言は無意味である。このバーラタの地には、多くのアヴァターや聖者たちが生まれてきた。またこの地には、この先も多くのアヴァターや聖者たちが生まれるであろう。この世には、多くの聖なる魂がいる。私は、彼らすべてに敬意を捧げるのだ」
このようにして仏陀は弟子を戒めました。
わずかな知識しかない人間が、学識の豊かな人間のように振舞うのは愚かなことです。
…(中略)…
仏陀の物語は、非常に尊く神聖です。彼はすべてを犠牲にして、真実を求めて旅を続けました。彼は、「ダルマム シャラナム ガッチャーミー」(私は正義を避け所とします)と言いました。
私たちは、ダルマを実践し、普及させ、経験しなければなりません。しかし今日、ダルマは衰退しています。
人々は、お金がすべてだと考えています。地球が太陽の周りを回っているのと同じく、人々はお金の周りを回っています。
お金を手に入れるために、
不正なやり方をする人々がいる。
彼らは、
他の人々を騙すことはできるかもしれないが、
誰が神を騙すことができるだろうか?
彼らは間違いなく、
自分たちの蒔いた過ちの種を刈り取ることになる
(テルグ語の詩)
仏陀は、これと同じことを教えました。重要なのは、お金ではなく人格です。至福は、苦行やジャパや瞑想によってではなく、感覚をコントロールすることによって初めて得られるのです。苦行や、聖典の研究や、聖なる河川で沐浴をすることによって解脱することはできません。高貴な魂に仕えることによってしか、輪廻の海を渡ることはできないのです。平安と至福に至る道で、私たち自身の感覚をコントロールすること以上に易しい道はありません。
しかし今日の人間は、この易しい道を手放して、悲しみと苦しみをもたらすだけの感覚的快楽を追い求めているのです。
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