さて、この紳士は、もう一人の紳士



2014年2月22日に米国カリフォルニアのサンタアナで行われた
サティヤジット サリアン氏によるスピーチ

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サティヤジット サリアン(Sathyajit Salian)
南インド、カルナータカ州マンガロール出身。1994年にサティヤ サイ大学プラシャーンティ ニラヤム校を卒業後、同大学の大学院にて理学修士号(MSc)と経営学修士号(MBA)を取得するかたわら、付き人として10年以上ババに直接仕えるという幸運を得る。学位取得後は、2年間シュリ サティヤ サイ セントラル トラストの財務を担当したのち、2010年12月よりシュリ サティヤ サイ セントラル トラストの正式メンバー。近年は子供たちに無料で教育を施すヴィッディヤー ヴァーヒニー プロジェクトの監修も行っている。メールマガジン2011年10月号、および、サイラムニュース143号に体験談を掲載。

2014 February 22. Satyajit Salian, Santa Ana, California.


オーム シュリ サイ ラム

常に存在し、常に慈愛深く、常に恵み深き主の蓮華の御足に、祈りと愛を込めたご挨拶を捧げます。 尊敬する年長者の皆さん、兄弟姉妹の皆さんへ、愛を込めてサイ ラムと申し上げます。

ここカリフォルニアにいるということは、非常に喜ばしく、また、非常に光栄なことです。私には、ここに来るということを、想像もできませんでした。

今日私は「ブックショップ」に行き、圧倒されるような体験をしました。これまでにこの場所で起こったことや、スワミが直接お書きになって署名なさった手紙を見ました。スワミの代理として、コーワン夫妻がこのセンターを始めました。その手紙を見ると、誇らしい気持ちになり、当時の歴史を感じました。手紙に署名がなされたのは一九六九年のことです。どれほどバガヴァンのビジョンが広がっていったのか、また、一九六九年以降すべてを包み込むスワミの手や腕がどれほど広がっていったのか、私たちには想像することしかできません。皆が口にすることですが、神のドラマが行われるときには、時間というのは関係なくなるものです。

一週間前にボストンで旧友の太陽さんに会ったことも素晴らしい体験でした。(笑)それは素晴らしい一週間で、ボストンは美しい雪景色でした。私が雪を見たのは初めてのことです。古き良き友人と再会するのはいいものです。

私がアメリカに来た目的は、現在タタグループと合同で行っているヴィッディヤー ヴァーヒニー プログラムのためです。タタは教育分野に大々的に参入することを決めました。社会教育という分野、特に貧しく恵まれない子供たちに対する教育を進展させるためにです。彼らは六名からなるチームをMITに派遣することにしました。私もそのチームに加わるよう依頼されました。なぜなら私たちは長いことこの件に関わっていたからです。この機会が訪れたとき、私たちはシュリ サティヤ サイ セントラル トラストの理事会にお伺いを立てました。理事の方々は「ぜひ行ってらっしゃい。いい経験になる」と言って、とても喜んでくれました。理事会の許可を得た後、私はパスポートを申請し、取得しました。ここで一つ言い訳をしなければなりませんが、それまでの私はいろいろな人から「うちの国に来てください」と頼まれていたのですが、「私はパスポートを持っていませんので」と言って断っていたのです。しかし、この仕事はとても幸先よく、とても正しく行われています。バガヴァンがなさっていたやり方です。仕事があると、私たちは出張します。何か重要なことを行うとき、私たちは出張するのです。

そして、私は、これは私に起こった良いチャンスであると考えました。(プラシャーンティ評議会会長の)レッディーさんが「カリフォルニアに来てはどうですか」と言ってくださったので、私は「はい」と答えました。そして私は旅に出て、海外に広がったサイ ファミリーと会おうと考えました。どのサイの集まりに参加しても故郷にいるように感じられました。自分はどこに行っても同じようなことを体験するのだ、ということを、私は体験させてもらいました。カニャークマリ、パンジャーブ、シッキム……そして今アメリカのボストンやカリフォルニアにいるときにも、そこには皆さんの家族の一員であるという感覚が強くあります。

今日私がお話ししようと思っている内容は一つだけ、スワミとの直接のつながり、についてです。スワミと直接の、一対一の関係についてです。どのようにして私たちはこのような関係を構築していくのでしょうか。このような関係に辿りつくまで、バガヴァンはどのようにして私たちを訓練してくださるのでしょうか。私たちが避けなければならない「もの」は何でしょうか。私たちが避けなければならない「侵入」とは何でしょうか。それが今日のスピーチで私がお話ししたいと思っている内容です。

さて、バガヴァンが常に、皆さんは私と直接の関係を持たなければなりません、神と直接の関係を持たなければなりません、回り道をしてはなりません、と主張なさってきたことを、私たちは皆知っています。誰かが推薦状を持参して「スワミ、インタビューをいただけますか?」と言って来たならば、私たちは常に叱責しなければなりません。誰か他の人のためにスワミにお願いするような人はいません。スワミは直接の関係を保たれます。

あるとき、ある父親が姉と義兄を連れてプラシャーンティ ニラヤムに行ったときのことを思い出します。父はスワミに「私と一緒に、彼らもインタビューに呼んでください」と祈っていました。スワミはまず彼らにインタビューを与えました。その日は父親の誕生日だったのですが、彼らがインタビューをいただいたのです。そのため父親はとても落胆しました。しかしスワミが与えてくださった教訓はとても素晴らしく、とても適切なものでした。それは、どのようにして私たちがハートを介してつながらなければならないかということについて、スワミが例を挙げるときによく使われる話です。それは理性的なつながりではなく、書物を介してのつながりでもなく、教育学を介してのつながりでもなく、知性で御教えを理解しようとする試みによるつながりでもありません。深い内面から湧き上がってくる愛のつながりです。

バガヴァンはよくウッダヴァとゴーピカの例えを使って、とても重要な例を示してくださいました。ウッダヴァはクリシュナ神と非常に親しい友人で、物事を非常に深く考える人物でした。彼は人間と神との関係について分析し、非常に深く理解する人物でした。彼の関係は、知識の道だったのです。しかし、クリシュナ神は、彼が帰依を味わうことを望んでいました。そのためクリシュナは言いました。「ヴラジャブーミ(クリシュナが子供時代を過ごした場所)にいるゴーピカたちを見なさい。彼女たちは非常に落胆しています。クリシュナはもはやゴーピカたちと一緒にいることはなく、マトゥラーに行ってしまい、彼の新しい使命の幕が次々と上がっているのです。」クリシュナに会えなくなってしまったゴーピカたちは、非常に苦悶していました。彼女たちに、神は常に内面に見出さなければならないという知識(グニャーナ)を授けるという意図をもって、クリシュナはウッダヴァをゴーピカのもとに遣わしました。

私は、御講話の中でバガヴァンがこの物語を語ってくださっているところを何回も見てきました。コダイカナルでは、バガヴァンはソファーに腰かけて、八組の手がバガヴァンにパーダセヴァ(御足のマッサージ)を捧げていました。非常に親密で和気あいあいとした中で、バガヴァンはこの物語、ゴーピカとクリシュナ神の間にあった素晴らしい関係について、語られたものです。

ゴーピカたちは、神とどのような関係を築くべきかという知識を与えるためにやってきたウッダヴァの姿を見ることさえも拒否しました。彼女たちには神との直接のつながり、神との直接の交流があったからです。スワミがお話しになる方法は、ブランマラ(ハチの) ギーターです。ゴーピカたちは、ウッダヴァにではなく、花から花へと飛び回っている蛾やミツバチに話しかけました。彼女たちは蛾に話しかけるようにして「なぜあなたは彼らに甘露の大切さを説明しに行かないのですか。直接の関係がないのに、あなたが甘露の何を知っているというのですか」と語ったのです。

そのためスワミは、私たちが着目する必要がある、バガヴァンとの美しい個人的な関係について、いつも語ってこられたのです。

バンガロールで私は、ある非常に年配の帰依者の方のお宅を訪問する機会に恵まれました。二〇〇〇年初頭のころだったと思います。バガヴァンがお乗りになった車は、バンガロール市内を通り過ぎ、一時間ほど走って、ようやくその女性の家に到着しました。その女性はとても背が低い方でしたが、とても熱心なスワミの帰依者でした。スワミが車から降りられた瞬間、その女性は、何人かの帰依者が持っている帰依者と神との美しく正しい関係、友情を発揮しました。彼女は即座にスワミの手をつかみ、このようにして自分の脇にはさむと、スワミを連れて歩き回ったのです。彼女は足が不自由でしたが、スワミを支えて、家の中に連れて行きました。この素晴らしい女性が歩きながら家の中にスワミをお連れした様子は、私の心の目にしっかりと刻み込まれています。家の中にはお孫さんやひ孫さんたちといった子供たちがいて、スワミはダイニングテーブルの席に着かれました。テーブルの上にはたくさんの食べ物がありました。ご飯、チャパティ、ラギー、すべてスワミがお好きなものです。スワミは「プーリー(揚げた薄焼きパン)は?」とお尋ねになりました。そこにいた全員の顔が愕然となりました。彼らはプーリーを用意していなかったのです。素晴らしいことに、スワミは「心配しなくても大丈夫です。私は待っていますから、台所に行って、プーリーを作ってきてください」とおっしゃいました。なんと美しい関係でしょう。スワミはこのおばあさんと一緒に過ごすことを望まれたのです。スワミが彼女と話されている間、台所で食器が落ちて、パニックになっている様子が聞こえてきました。スワミはこの年長の女性と一対一の関係を持ったのです。

ようやくプーリーが来て、昼食が終わりました。子供たちはスワミに熱心に話しかけ、「スワミ、私たちのおばあちゃんはとっても帰依が篤いんですよ。こんな年なのに、バガヴァッドギーターを勉強しようとしているのです」と言いました。スワミは「おお、とてもいいことです。あなたはバガヴァッドギーターを暗唱できるのですか?」とおっしゃいました。その女性は、バガヴァッドギーターの最初のシローカー(節)をたどたどしく語り始めました。「ダルマクシェートレ クルクシェートレ サマヴェータ ユユッサヴァハ マーマカー パーンダヴァス チャイヴァー キマクルヴァタ サンジャヤー(ダルマの地、クル族の地に、戦わうために集まっている我が息子たちとパーンダヴァたちは、何をしているのか。サンジャヤよ。)」彼女がバガヴァッドギーターの最初のシローカーを唱えると、スワミはおっしゃいました。「アンテー チャル(もう十分です)」もう十分です。あなたはバガヴァッドギーターの真髄を理解しました。あなたは努力を重ねました。 あなたは直接の関係を築きました。もうこれ以上読む必要はありません。」

「必要かつ重要なことは、愛を感じ、友情を感じ、神との一体性を感じることが、あらゆる霊性修行の真髄であるということです。」とスワミはおっしゃいます。これは、私たちが、自分たちの理想を投影することができる人間の身体をもって、アヴァターと直接的な関係を持ったときに初めて可能となります。私たちが大切にしているこれらの理想すべては、スワミそのものです。そのような関係こそ、バガヴァンが私たちと望まれているものなのです。しかし、自分と神との間に直接的な関係、一対一の関係を築き上げ、維持していくためには、たゆまぬ努力とたくさんの訓練が必要です。私たちはそれをより一層深く探究することになるでしょう。

私が一番初めに体験したエピソードをご紹介します。それはとても重要なことであり、ここでお話しするのにふさわしいことでもあります。それは、スワミと直接の関係を築くために受けた最初の訓練でした。夏期講習でのことです。私は、初めて神様と同じ家の中で過ごす機会を得たコダイカナル滞在を終えたところでした。旅行を終えて(ホワイトフィールドに)戻ってくると、まだ夏期講習が続いていました。夏期講習が行われていたので、私は学生たちと座りました。一九九六年のことです。私がスワミから話しかけられ始めた時期でした。アジナータヴァーサ、すなわち神様が私のことを見ていないと感じられる場所で、五年間過ごした後のことです。私たちの多くがこれを体験します。視線が飛ばされてしまったことはありますか。それはこんな風に、一、二、三、と来て、あなたを飛び越え、隣の人に視線が移ってしまっているのです。これを五年という長い間体験したのち、私はスワミから話しかけられるようになりました。

夏期講習が行われていたので、私は学生たちの中に腰を下ろしました。大量のメモを取っている講師がいました。その講話のメモをまとめて印刷するのが、その講師の義務だったのです。ご講話が行われるときの夏期講習は素晴らしい時間です。加えて、講話には試験が伴います。そのため、試験の準備をするためには、大量の印刷されたメモがなければなりませんでした。ですから、メモを印刷するために、彼は小さなウォークマンを使ってスワミの御講話を録音していたのです。

私たちの世代は、ウォークマンが何かを知っています。これを若い世代に説明するのには苦労しました。ある学校で話していたときには、私がウォークマンについて話していると、子供たちの目がうつろになってしまって、私は話を止めなければなりませんでした。私が「ウォークマンが何か知ってる?」と尋ねると、彼ら全員が首を横に振りました。私は「テープレコーダーは知ってる?」と聞くと、何人かが「知ってます」と答えました。それで私は、ウォークマンは小さなテープレコーダーだと説明したものです。

さて、この教授は私にウォークマンを渡しました。私は大きなスピーカーの隣に座っていたのです。教授は「サティヤジット、これを録音してもらえるかな」と言いました。私は「わかりました。先生。録音しておきます」と言いました。私は御講話全部を録音して、ダルシャンの後すぐにウォークマンを返却するよう言われていました。けれども、ダルシャンの直後、スワミが「中に入りなさい」と私に話しかけてこられたのです。アーラティが始まり、皆が立ち上がりました。教授は見つかりませんでした。それで、私はウォークマンを手に取り、ズボンのポケットの中に押し込むと、トライーブリンダーヴァンの中に駆け込んだのです。

スワミが私をご覧になるやいなや……あ、語呂がいいですね。「スワミ ソウ ミー(スワミが私をご覧になった)」スワミは遠くから私をご覧になるやいなや、「エー、ポケット メイン キャー ハエ?(あれ、ポケットの中に何が入っているのかい?)」とおっしゃいました。私はスワミに「ウォークマン ハエ、スワミ(ウォークマンです。スワミ)」とお答えしました。それから私はスワミに説明をしました。するとスワミは「ウォークマン アンテ?(ウォークマンとはどういう意味だい?)」とお聞きになりました。私たちはグニャーニであり、私たちは全知の存在です。(皮肉)ですから私たちはスワミに「スワミ、これは小さなテープレコーダーです」と説明します。

次の質問は「ヤヴァレッチャル カウン ディヤ?(誰があなたにこれを渡したのか?)」でした。それで私はスワミにある講師の方だと話しました。スワミは怒った口調で「なぜこれを持ってきたのだ?」とおっしゃいました。私は「ああ、大変なことになってしまった」と思いました。「スワミ、これはレコーディングに使うだけです。」突然「乞食め!」と言われました。「乞食め!サブ ケ サーム ネ ハート カルタ ハエ(お前は皆に手を伸ばして、皆に物をねだっている)」「スワミ、違います。スワミ!これは録音に使うだけなんです。あとで返します。」「悪い子だ!」説明ができません。あんな速さで川が流れていたら、川を泳いで渡ることはできません。鮭でさえも川を横切って泳ぐことはできません

私は運命だと思ってあきらめました。スワミは私に手を見せて「キャー ハエ? メイン ハート メイン キャー ハエ?(お前が考えているものは私の手の中にあるかい?)」とおっしゃいました。私はスワミを見て言いました。「クチ ビ ナヒ ハエ。(何もありません。)」私はパニック状態でした。私はスワミに、そこには何もないと言いました。スワミは「ドゥンナポタ サブ クチ ハエ ラー(ドゥンナポタ、すべてのものがそこにあります)」とおっしゃいました。ドゥンナポタは水牛という意味ですが、ここでは愛情を込めて使われています。(皮肉)

すべてのものがこの手の中にある。なぜおまえは他の人へと手を伸ばしたのか。スワミが手を回されると、IWAのウォークマンが現れました。私はそのIWAのウォークマンをまだ持っています。それは銀色の四角い箱に入った、グレー色の美しいウォークマンです。ご存じのように、その数分前、スワミは私に「ウォークマンとは何か」とお聞きになっています。スワミは、他の人には頼むな、とおっしゃったのです。直接の関係 ラク サクタ ハエ。直接の関係を保ちなさい。その点を理解させるために、そして強く印象付けるために、私たちの意識に焼き付けられるようなやり方で、あなたと神との関係は直接のものでなければならないとおっしゃったのです。神であるスワミは、人生で必要なものを何でも与えられる力をお持ちです。私たちが欲張って求めるものすべてではありません。私たちが切望するものでもありません。人生に必要なものはすべて与えられるのです。一つのポケットが膨らんでいた私はたいそう怒られたというのに、トライーブリンダーヴァンの外に出たときには膨らんだポケットが二つになっていました。つまり、これが、バガヴァンとの関係の美しさなのです。

スワミが望んでいらっしゃるのは、常に、あなたと神との絆がより強くなるという関係です。その関係は薄れていきません。他に焦点をあて、薄れていきません。バガヴァンがよくおっしゃっていた重要なことの一つに、「コンペア チェイウッドゥ(比べてはいけない)」という言葉があります。どんなときにも、あなた自身を他の人と比べてはいけません。

たくさんの仕事を抱えて、たくさんのセヴァをしていたある紳士のことを思い出しました。私はちょうどスワミに奉仕をし始めたころでした。私は「スワミ、これらの人々はたくさんの仕事をしていますが、私には何もできません、スワミ。私はただあなたの蓮華の御足のもとに座って、パーダセヴァをしているだけです。」と言いながら、非常に悲しく感じたものでした。それが内面で感じていた思いでした。ある日のこと、この紳士がスワミのもとへ来てたくさんの物を見せました。

ときどき、スワミと二人きりになったとき、私はこのように言ったものです。「スワミ、私には何もできません。」スワミはとてもお怒りになって、「コンペア チェイウッドゥ(比べてはいけない)」とおっしゃいました。すべての人には、その人の役割があります。すべての人が、スワミの使命の中に独自の役割を持っています。集中力を失わせるもっとも簡単な方法は、他の誰かとあなたのセヴァを比べたり、サーダナを比べたりすることです。私たちはいつも比べてしまいがちです。「私はあの人と同じくらい帰依心があるだろうか?」「他の人のように、私がやっているセヴァは人目を引く華やかなものだろうか?」「私は他の人のように、よく働いているだろうか?」他の人と神の関係を尺度にして、あなたと神の関係を評価することは、よい考えとは言えませんし、不可能です。そのような見方が埋め込まれます。私は、それが少年たちの心に埋め込まれていくのを何度も見てきました。

あなたと神との関係を語ること、あなたの霊性修行、あなたと神との関係を深めること。「昨日感じていたよりも、今日の方が、私はスワミと近くなっただろうか?」「私は、絶えずスワミとの距離を縮めているだろうか?そうではないのだろうか?」それが、私たちの進歩を測る唯一の尺度であるべきです。他の誰かではなく。多車線の道路ではなく。あの車線は早く動いている、この車線は早く動いている、ではなくて。人々は車線を越えてジグザグ走行をしてしまいがちです。それは、私たちが必要とするやり方ではありません。

もう一つ、スワミとの関係は、決して、決して堅苦しいものであってはならないと、スワミはよくおっしゃったものです。私たちはスワミと直接的な、個人的な関係を持つべきです。皆さんの多くが聞いたことがあると思いますが、スワミはこんな素晴らしい例えを挙げられました。あなたが自分の母や父に何かをねだるとき、始めに「ああ、お母様!お母さん、あなたのサリーはとても綺麗ですね」とか「あなたの髪形は美しいですね」とか「お母さん、あなたはとても愛情にあふれています」などと言ったりはしません。あなたは母のもとへ直接行って「ママ、私はこれが欲しい。これをちょうだい」と頼みます。あなたと神との関係を過剰に堅苦しくする必要はないのです。スワミとの関係を個人的なものにして、友情のレベルの関係を保ち、愛情あふれる父や母のレベルの関係を保つこと、それこそがスワミがいつも促してこられたことなのです。

私がここで、西洋から来た帰依者の方々にお会いしてさらにわかってきた、とても重要な側面があります。ここ、西洋では、とても素晴らしい、熱心な探究が行われています。より深いサーダナが行われています。スワミはいつもこうおっしゃっていました。「ああ、あなた方は皆、蓮の池にいる蛙のようです!あなた方は蓮の近くにいるというのに、ゲロゲロ鳴いているだけです。遠くから来た帰依者たちは、甘露を得ては、去って行くというのに。それが、あなた方がここでやっていることです。」

ですから、この関係を、絶え間ない努力を強いられる関係を、とても美しい方法で発展させていくことを、スワミは促されてきたのです。ここ二、三年の間に私が何度も直面した疑問の一つは、これからこの関係をどうやって保ち続けるのか、ということでした。それは、今すべての帰依者の心の中にある疑問です。特に、スワミの近くにいるという幸運に恵まれ、何度もインタビューを受け、個人的な問題についてはすべてスワミに相談してきた帰依者たちが持っている疑問です。彼らはいつもこのような疑問を抱いています。「これから、どうやって我々とスワミの個人的関係を維持していくのだろうか?」これから、どうやってスワミと直接的関係を維持していくのだろうか?

すべては、サーダナをし続けることにあります。スワミを私たちの日々の生活の一部にすることです。私たちがスワミと共に過ごした時間を思い出すことです。私たちがその領域に入ると、スワミの存在に気付くようになります。たくさんのサイインシデンス(サイとの必然)を見るようになります。コインシデンス(偶然)ではありません。サイインシデンスです。それは、私たちの生命の中にスワミが存在しているという明瞭な感覚をもたらします。私たちの人生の中にスワミが慈愛深く存在しているという感覚です。

ボストンである人が私に質問しました。「バガヴァンの蓮華の御足のもとであなたが経験した、最も大きな変容をもたらした体験とは何ですか?」私はこのことについてずっと考えてきました。なぜなら、多くの人々が私にこの質問をしてきたからです。もちろんたくさんの体験がありました。けれども、本当に私の人生を変えた体験は、スワミが肉体を離れられた後に起こりました。十一月二十四日のことでした。皆さんの多くはこの出来事のことを既にご存じであるとは思いますが、私の人生においてとても重要な出来事でしたので、ここでも紹介させていただきたいと思います。二〇一一年十一月二十四日のことでした。バガヴァンを失ってしまったという想いから、私はとても深刻な鬱状態にありました。それについて誰かに話すこともできませんでした。朝起きることもできず、意気消沈していました。

十一月二十四日、私は、かつて毎日、朝と午後に伺っていた、ヤジュル マンディール(スワミの住居)へ行きました。私たちはスワミの祭壇の前にある小さなランプに火を灯し、数分間ヴェーダを唱えてから、バガヴァンが歌われるバジャンを聞き、数分間瞑想をして、戻ります。そんなプログラムが毎朝、毎夕、必ず行われています。私たちは何人かでまとまってやっています。十一月二十四日、私はヤジュルマンディールの中でスワミがよくお座りになっていた美しいソファーのすぐそばに座っていました。その椅子は祭壇の隣に置かれていました。足置きとクッションがついた美しい茶色の革のソファーです。皆さんが心の中でイメージできるように、詳しくお話ししています。ヴェーダが終わって、バジャンが始まると、私は椅子の隣でうとうととしました。二分か二分半くらいの間に、私は鮮明な夢を見ました。私は同じしつらえの、同じ部屋の中の、祭壇の前にいました。私はじゅうたんの上で仰向けになっていました。私の身体は横たわっていました。バガヴァンは、私の隣で膝立ちをしていらっしゃいました。私は、まるで宙に浮いているかのように、床の上にある自分の身体とバガヴァンの背中を見ることができました。私はバガヴァンの髪の毛を見ていました。交差させた両手を見ることができました。近くから見ているかのように、バガヴァンの爪、指、肌の質感、肌の色、すべてがくっきりと見えました。バガヴァンの両手は私の胸の上に置かれていて、私に心臓マッサージを施してくださっていたのです。それがその日私が体験した出来事でした。その日から、ある種のエネルギーを感じるようになりました。バガヴァンがいつも私たちと共にいらっしゃるという感覚です。バガヴァンが、今もそこに、私たちの間に座っていらっしゃるという感覚です。それは、理論的に理解するのではなく、実際に体験するものです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、どうかサーダナを続けてください。なぜなら私たちにとって、どんなに小さな体験でも、必要性が……欲求が……何と言うか……限界なのです。限界では、どんな小さな経験でも人生を変えてくれるのです。どんなときでも、霊性の中に悲観主義が入り込む余地はありません。霊性の中に落胆が入り込む余地はありません。なぜなら霊性とはすべて楽観主義であるからです。

霊性とは、神にどんどん近づきたいという信念を抱くことなのです。それが私たちにあらゆる努力をさせる推進力となるべきです。それがあらゆるサーダナの推進力となるべきです。あなたのチューニングが合うとき、あなたが期待しているとき、あなたはいつも「サイ」エンスを探し求めます。もしあなたがそのように見ることを望むのなら、それは美しい出来事であり、他の人から見れば、それは些細な出来事であるのかもしれません。

二〇一二年の私の誕生日のことです。スワミが肉体を去られてから、初めての誕生日でした。私は朝いつものようにヤジュルマンディールへ行きました。私たちは掃除をし、ランプを灯し、ヴェーダを唱え、スワミの歌われるバジャンのテープをかけました。それが終わるとすぐに、一人が立ち上がって、テープレコーダーのスイッチを切りました。そして私たちは約五分間座って瞑想をしたのです。その五分の間に、停電が起こり、やがて復旧しました。最もうれしく驚いたことは、スワミが歌われるもう一つ別のバジャンが流れ始めたことです。実際の出来事に着目すれば、停電が起こり、電気が復旧したので、ラジオの電源が入ったということになります。けれども私にとって、そしてその場にいた兄弟たち全員にとって、それはとても特別な出来事だったのです。こうして、私の特別な誕生日のために、バガヴァンの特別バジャンが始まりました。つながることができること、特別に感じられること、自分が神の特別な子供であると感じられること、それが、私たちがスワミと一緒にいるときに期待していることです。それが、私たちが日々絶えず育むべき関係なのです。

スワミとの直接的な関係におけるとても重要な一面について、言及したいと思います。この面において私たちはたくさんの課題と直面しています。最後に私はこのことについて話さなければなりません。仲介者についてです。スワミとつながるためには、誰か他の人の助けが必要だと感じること、私たちをスワミの近くへ連れて行ってくれるという人の餌食になること。それは、サイに近い帰依者の感受性を阻害するものです。それをしてはなりません。私たちが訓練されてきた方法、スワミがなさってきた方法は、神と一つであることを私たちに探究させてくれるものです。ですから、誰かがやって来て「私があなたをスワミの近くに連れて行ってあげましょう。私はあなたと神の仲介者になりましょう」と言い出すようなことは、絶対にしてはならないのです。サイ オーガニゼーションでは絶対にそういったことを推奨してはなりません。サイ オーガニゼーションは一つの団体ですが、サイ帰依者にとってそれ以上に重要なことは、それを許すことができるということは……なぜならあらゆる偉人、あらゆる偉大な神の化身が来られたのは歴史的事実であるからです。その周りに生じるのが宗教です。私たちはこのことについて強く意識しなければなりません。そしていかなる仲介者も許してはなりません。これがバガヴァンが私たちに教えてこられたことです。

あるとき、私はトライーブリンダーヴァンにいました。二〇〇〇年か二〇〇一年のことです。そこにはスワミの美しいブランコがありました。バガヴァンは三時になるとそこに来て、ブランコにお乗りになったものです。私はバガヴァンの隣に座るという幸運に恵まれました。そこにはもう二人、年長者の帰依者がいました。スワミはとてもリラックスしていました。私たちはパーダセヴァをしていました。そのとき、非常にリラックスしたムードの中で、クリケットのこと、最近ここで起こったこと、あそこで起こったこと、新聞記事など、ありとあらゆることが話し合われました。「イン ケ ウン サマーチャラム?(他のニュースはないのかい?)」スワミはよくお尋ねになったものです。そのとき、とても年長の帰依者の方がいらっしゃいました。・・・私はちょっとだけ脱線したいと思います。なぜなら彼がスワミとの間に持っていたとても美しい関係についてお話ししたいからです。彼は非常な幸運に恵まれて、スワミと一緒に長い時間を過ごしました。それからパーダナマスカールもいただきました。彼がパーダナマスカールをすると、その周りにいた全員が、自分も同じようにパーダナマスカールをしたいと思いました。彼は床の上に体を伸ばし、本格的に目や頭に触れたりしたものでした。彼の顔に満足した様子が現れると、私たちもうれしくなったものです。

あるとき、スワミが彼を昼食にお呼びになりました。そして昼食の後、彼はパーダナマスカールをする用意をしていました。なぜならパーダナマスカールをすることは彼の「権利」だったからです。どんなよい知らせがあっても、たとえば男の子が試験でよい成績を取ったというときでも、この紳士はパーダナマスカールをしました。何が起ころうとも、どんなよいニュースがあっても、この紳士はパーダナマスカールをしました。それは美しい関係でした。ある日、昼食の後、彼はパーダナマスカールをする準備をしていました。するとスワミが「あなたは昼食を終えたばかりだというのに、どうやってナマスカールをするのかい?」とおっしゃいました。紳士は「いえ、いえ、スワミ。これは私の権利ですから」と言いました。スワミは「よろしい。ナマスカールをしなさい」とおっしゃいました。それから彼はナマスカールをする準備を整えました。彼は、両手が正確に届くように距離を測って腰を下ろし、美しいパダナマスカールをしようとしたのです。 それはある種の儀式でした。この紳士がひれ伏したとき、スワミは私をご覧になり、「私はこれから彼の足を引っ張るつもりだ」という合図を送りました。インドでは、両手を交差させて主人の足に触れるという伝統があります。つまり、右手で相手の右足に触れ、左手で相手の左足に触れるのです。彼は両手だけでなく、両足も交差させました。パーダナマスカールをしようとしていた彼は、困ってしまいました。パーダナマスカールが終わると、スワミは明るく「チョータ バンガールー。私には一つ疑問があります」とおっしゃいました。あなたは右手を左手の上に置きましたか?それとも左手を右手の上に置きましたか?」その紳士は混乱して「スワミ、どちらが正しいのか教えてください」と言いました。スワミはこのようなことはすべて重要ではないのだとおっしゃいました。ナマスカールが重要なのです。脱線はこれで以上です。

さて、この紳士は、もう一人の紳士と一緒にスワミの蓮華の御足に隣に座っていました。そして会話が進むにつれて、彼はある十四歳の少年について話し始めたのです。バンガロール市内のとある場所にいたその少年は、スワミが自分を介して話していると主張していたのです。そしてこの紳士は「スワミ、私はその場所に行ったことがあります。その少年は素晴らしい、質素な家庭の出身です。この少年はきらきらと輝いています。彼の顔の上にはテージャス(光)が輝いているのです。彼はとても純真に見えます。どう考えても、これは本物です。」と訴えました。彼は「それは本物のスワミで、あなたが彼の身体のところへ行ってしゃべっているのです」と言いながら、スワミを納得させようとしていました。スワミはしばらくお聞きになっていました。それからスワミがその紳士を叱責したその激しさを、私は決して忘れないでしょう。「お前は何年もの間私と一緒にここにいたというのに、どうしてこんなことを私の目の前で言い出せるのか!お前には常識がないのか。ブッディ レダ ネク。ブッディンダ レダ ネク。(お前には常識があるのか、ないのか。)いったいなんで私がそのきたない身体の中に入る必要があるのか。もし私が誰かに話しかけたいのなら、私は自分でできる。私は直接話すことができる。」このように叱責したのです。これが当時スワミがなさったとても強い叱責でしたどういうわけか、この種の物事はとても人の心を惹き付けます。普通ならあなた方は、これは安易な近道であると考えます。人々はこの種の物事を信じがちです。人々はこの種の物事を信じたがります。

スワミがダルシャンに行かれると、この紳士は私のところにきて、再び同じ話を繰り返しました。「僕は行って来たよ。サティヤジット。僕は彼を見たんだ。」私はじっと見ていました。「何を言っているんですか。あなたは今怒られたばかりでしょう。今度は私を納得させるんですか。」私はそのことをはっきりと言うことができませんでした。けれども「安易な近道」を探していると感じたのです。霊性において、私たちと神との関係に安易な近道はありません。安易な近道は、あなたと神の間に他の誰かが入り込むことを許しているだけです。直接的な関係の間に、何か他のことが入ってくるのを許すということは、直接的な愛を感じることができなくなるということです。奉仕から得られる喜びを直接感じることができなくなるということです。サーダナから直接得られる喜びを感じられなくなるということです。誰か他の人の主張に頼らなければならなくなります。それは非常に情けないことだと私は感じます。

かつてバガヴァンはこのようにおっしゃったこともあります。「私にパーダナマスカールをしてはなりません。なぜなら私はいつも、あなたと私は一つですと言い続けているからです。もし私がパーダナマスカールを与えたら、私は自分自身の言うことに従っていないことになります。バガヴァンが私たちに望まれているのは、このレベルにまで来ることです。それが、バガヴァンが私たちに会得して欲しいレベルなのです。バガヴァンが私たちのことを「デヴィヤースワルーパラーラ(神の化身である皆さん)」とお呼びになるとき、彼は心の底からそうおっしゃっているのです。バガヴァンは本気で「あなた方は皆、神の一部です」とおっしゃっているのです。この神の火花を籠の中に閉じ込めたり、ある種の儀式や盲信で縛ったりしてはなりません。それがサティヤ サイのミッションではありません。

サティヤ サイのミッションは、常識を伴った強い帰依心のことです。帰依心があふれだす感覚。そうです。神への熱烈な愛です。けれどもその神は普遍的であり、直接近づくことのできる神なのです。それが、私たちが愛する主が、私たちに与えてこられた修練です。

もう一つ美しい出来事をご紹介したいと思います。これはある非常にかわいらしい紳士に関する出来事です。彼は果物の入った籠を持っていました。スワミはトライーブリンダーヴァンの中で少年たちと一緒に静かに過ごされていました。アーラティが終わるとスワミはその紳士のもとへ行き、「エー キャー ハエ。(ええと、これは何ですか?)」とお尋ねになりました。彼はスワミに言いました。「スワミ、あるロシア人の帰依者がいまして、彼女の夢の中にスワミが現れて、私(紳士)に果物を渡し、『この果物をスワミに渡しなさい』とおっしゃったと言うのです。」その光景はとても美しいものでした。私は運転手のパドマナヴァンと一緒に立っていました。私たちは皆、スワミがどうお答えになるか、待っていました。スワミは非常に愛情深くおっしゃいました。「ご覧なさい、バンガールー。行って、ロシア人の女性にこう言いなさい。スワミがあなた(紳士)の夢に出てきて、彼女の願いを承諾するように指示することを、その女性は祈っていたのです。」スワミが半分テルグ語で、半分ヒンディー語で話されていたので、この紳士は意味を理解できませんでした。けれどもスワミが非常に愛情を込めてお話しになったので、この紳士はとても幸せになりました。すると最後にスワミは態度を一変させて、怒った口調で「ティスコ バナ レダ。あなたはこの籠を持って帰るのか、置いて行くのか?(持って帰りなさいという意味)」とおっしゃいました。この紳士はメッセージを理解し、果物の入った籠を持ってすぐに走り去りました。

このような出来事に、私たちは立ち会ってきました。これらはバガヴァンがお話しになる直接的な関係です。

この仲介者についてはたくさんの噂があります。他の人たちが近づくことができないのに、彼らだけが神に近づくことができる。なぜなら彼らはより深いサーダナを行っているから、という噂です。彼らは定期的にサーダナを行っているけれど、私たちはサーダナを行っていないと言うのです。くだらない!勘弁してください。私はここでは遠慮なしに言います。ええとですね……

神とつながる上で、サーダナは非常に重要です。けれども、あなたと接触するために、神があなたのサーダナを必要とするわけではありません。私がサーダナをしない限り神が私に触れることはできない、という条件を、あなたが付けることはできません。スワミには石と交信することさえも可能なのです。神はアハリヤーと呼ばれる石を蹴って、生き返らせることもできます。その石は、そこでサーダナをしていたわけではありません。神に蹴られて、息を吹き返したのです。私たちにとってサーダナは、神とつながるために、非常に重要なものです。けれども神にとっては、私たちとつながるためにサーダナが絶対に必要というわけではありません。

もう一つ、美しい例をご紹介します。ちょうど昨日起こったことです。この弟が来て、私に話してくれたので、私はとても祝福された気持ちになりました。プラヴィン、彼はボストンから来ました。昨夜彼は私のところに来て、「僕は素晴らしい夢を見たんだ」と言いました。私は「オーケー、話してみて。」と言いました。このようなやり方は、絶対にスワミがなさることだと感じます。夢の最も難しい問題は、スワミが私の夢に出てきて、AさんからBさんにこれこれを言うようにと、Aさんに伝えなさい、と私に言われることです。そうですよね?これは難題です。けれどもスワミの夢のすべて、スワミが直接介入してこられることは、あなたに対する直接的なメッセージなのです。あなたが愛で満たされていると感じさせるために、熱意と喜びに満ちていると感じさせるために。そうすればあなたは「神が私に触れてくださった」とわかります。さて、この少年(プラヴィン)が私のところに来ると、「お兄さん、私は昨日素晴らしい夢を見たんです」と言ったのです。私(プラヴィン)はプラシャーンティ マンディールで、たくさんの少年たちと一緒に、何かが入っている大きな籠を運んでいました。そこにスワミが座っていらっしゃいました。サティヤジットさんはスワミの隣に座っていました。スワミは愛情深くあなた(サティヤジット)の方を振り向かれると「アカレスタ ウンダ?(お腹が空いたかい?)」とお尋ねになりました。夢の中で、私(サティヤジット)は「はい」と答えました。「はい、スワミ、私はお腹が空いています」と言ったのです。するとスワミはラッドゥー(インド菓子)を物質化されて、それを私(サティヤジット)にお与えになりました。この少年(プラヴィン)は、夢の中で「すごい!スワミがラッドゥーを物質化してあげているぞ」と考えていました。それからスワミは彼(プラヴィン)をご覧になり、彼を呼び戻されました。そして、私(サティヤジット)の手からラッドゥーを取り上げて、二つに割り、半分を彼(プラヴィン)に、もう半分を私(サティヤジット)にお与えになりました。これが彼(プラヴィン)が見た夢です。彼が得たメッセージは、おそらく「私(サティヤジット)は本当にお腹が空いている」でしょう。それでその朝、彼は私にイドリ(米で作った蒸しパン)を持ってきたのです。私は恥ずかしいところを救われました。私は長旅をしてきたところでした。人々は私に、この六時間のフライトの間にはほとんど何も食事が出ないことを告げていました。その日の朝、彼は私のためにイドリとチャパティロールの入ったパックを持って来てくれたのです。彼らが来ると、私を車で送ってくれました。彼はその日一日を喜びに満ちて過ごしていました。その前夜に、彼は自分の会社のために一億二千万ドルの契約にサインしていたのです。スワミから直接介入してこられるときには、善良な感覚、健全な感覚を感じます。もしスワミが私の夢にやってきて「あなたのためにイドリを手に入れるようプラヴィンに言いなさい」とおっしゃったのなら、ちょっと戸惑うことになったでしょう。それはスワミのやり方ではありません。このような種類の出来事を、私たちは目標にしているのです。スワミと直接的な関係を持つために。あの紳士は、彼の夢の中にスワミが来られるようにとサーダナをする必要はありませんでした。

あなたの夢に入ってくるために、スワミはサーダナという介入を必要となさいません。これは、すべてのサイ帰依者たちによく教えるべきことです。神と、直接的な、愛情に満ちた関係を保つこと。世界第一地域の会長であるサティヤ氏が、ボストンで私に教えてくれた美しい例えがあります。つながりがあるとき、私たちのハートから神へ愛が流れます。私たちのもとへ降りてくる神の恩寵によって、この回路は自動的に完結します。これが、バガヴァンの御講話からの引用です。

サミティーや、サイセンターで学生たちが行っている、非常に真摯な読書は、多くの考えを生み出します。私は、これらの人々がサーダナやスタディーサークル等で行っている強さや規律の方法が大好きです。これらの美しい物事を、この地の美しい人々に紹介することができて、とてもうれしいです。皆さんとこのように交流できる機会を与えてくださったスワミに、心から感謝申し上げます。

ご清聴ありがとうございました。サイ ラム。

 





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