サイの御教え
新年のメッセージ
ヴェーダの教え
人は長く生きることではなく、人生を浄化することを望むべきです。長年の間カラスとして生きるより、ほんの束の間でも、ハムサ(天界の白鳥)として生きることの方が、はるかに貴いことなのです。人間の低いレベルの欲求を昇華させ、神聖な道へと導き、『ジーヴァ(個我)』と『デーヴァ(神)』とが同一のものであるという、宇宙意識と一体化した栄光に満ちた運命をもたらすために、『ヴェーダ(古代に啓示された諸聖典)』はこれまで、実現できる真理について、深遠な格言によって約言された多くの教えを示してきたのです。
ミルクを凝固させてカード(凝乳)を作るためには、ミルクの中に少量のカードを加えます。そうすることによって、ミルク全体がカードに変わります。それでは、そのもとのカードは、どこから手に入れたのでしょう? それは、同じようなやり方でミルクを凝固させて手に入れたのです。人生の年月は、このミルクに相当します。神の原理である『ブラフマン』がカードであり、それが人生に浸透すると、その人生は『神の物語』へと変質します。これこそが、『ウパニシャッド』の中の、「ブラフマンを知る者はブラフマンになる」という宣言の意味していることです。人間性が神性に満たされた時、人間は神になるのです。
それに続いて何が起こるのでしょうか? カードになったミルクは、霊的な問いかけや内的探究によって撹拌され、やわらかく甘い香りのバター、すなわち『アーナンダ(神の至福)』が生まれます。このアーナンダは、神を通じてのみ、そして神からのみ得ることができるものです。それ故に、アーナンダはすべての『ヴェーダ』の核心であり、あらゆる言語で書かれたすべての『シャーストラ(すべての聖典の目的)』の果実であると宣言されているのです。人は、この真実を信じなければなりません。そうでなければ、その果実を手に入れることができません。私もまた、繰り返し何度も信仰の必要性を強調しています。というのも、信仰のあるところに愛があるからです。愛のあるところに平安があり、平安のあるところに真実があります。真実のあるところに至福があり、至福があるところに神がいるのです。
私はブラフマンである
今日、人々の信仰は弱まり、それが失われている場合さえあります。にもかかわらず、人々は『アーナンダ(神の至福)』を声高に要求しています。アーナンダはいかなる店から調達することも、いかなる会社から注文することもできません。多くの人々は、「どのようにして信仰を育てるのでしょう? なぜ信仰をもたなければならないのでしょう?」と尋ねます。その理由を定義したり、明確にすることはできません。信仰は、目に見えない確信によってハートの中に沸き起こるものです。人は息子や父親を信じ、夫や妻を信じていますが、なぜ信じるのかを説明することはできません。それは、心の中で生まれるものでなく、外的な原因の結果として生まれるものでもありません。
『私』という意識、つまり個我は、何らかの『主義』の中で形作られたり、その中に封じ込まれたりすべきではありません。もしそうなった場合には、それは利己主義という有害なものになります。もし『私』という意識が肉体のみに限定されて、その肉体が『私』であるというレッテルをはられてしまうと、それは有害になり、自尊心や利己心が生じます。個我が『アートマン(真実の自己)』と同じであると見なされるようになれば、それは聖別され、『ブラフマン(神我)』と融合していくのです。泡のようにはかない、かりそめの存在である肉体を『アハム(自分)』だと考えてはいけません。
そもそも、私とはいったい何でしょうか? あなたは、一日中『私』、『私のもの』という言葉を使って、私の家、私の体、私の人生、私の感覚、私の、私の、私の、と繰り返します。しかし、それらの持ち主である『私』とは何者かということについては深く探究しようとしません。
熟睡状態にある時、あなたは『私』を感じることも、『私』について考えることも、さまざまな『私の持ち物』について思い煩うこともありません。それでは、その『私』はいったいどこへ行っているのでしょうか? 睡眠中の短い時間の間すら、『私』があなたから離れて行くのであれば、どうして『私』が、目覚めることのない永遠の眠りについているあなたと共にいることなど、あり得るでしょうか?
睡眠は短い死です。死は永遠の眠りです。あるものと別なものとの間に生まれる愛着についてよく考えてごらんなさい。そうすれば、『私はブラフマンである』という真理に到達することができます。
神は遍在
全宇宙は神から生まれたのではありません。それが神そのものなのです。『神以外』のものは存在しません。『神以外の別の存在はない』のです。「神を見たことがありますか?」と尋ねる人々がいます。「はい、あります」と答えなさい。すると彼らは、「神はどこにいますか? 私たちに見せてください」と尋ねるでしょう。神が特定の場所のみにいるのであれば、その方向を指差して、「神はそこにいます」と言うことができるでしょう。しかし、いま私の目の前にあるこのマイクは神なのです。このテーブルの上の花輪も神なのです。このハンカチも神です。この世界には神より高いものも、神ではないものも、神から区別されるものも存在しません。神は遍在のチャイタニヤ(永遠なる意識)です。
ブラフマンとの一体性
人間は真我の明かりからくるインスピレーションを使って、神聖な行為に身を捧げるべきです。
多くの人々は、私のところに来てこう質問します。「スワミ、私たちは心をコントロールしようと努力しているのですが、それは狂犬のように走り回ります。どのようにしたらうまくできるのでしょうか?」と。そのような考え方が間違っています。心に直接触れることはできません。というのも、心は感覚と結びついているからです。感覚をコントロールしなさい。感覚があなたを物質世界に引き込むのを許してはなりません。つまり、心を、迷妄の道具ではなく、悟りを得るための道具にすることができるのです。そうすれば、『このアートマこそがブラフマン(神)である』という真理が明らかになります。この意識の光輝が、無知の暗闇を取り去ります。
『ジョーティー(光)』があるところに暗闇(無知)は存在しません。『アートマ(真我)』は『(自ら光を発している)ジョーティー』なのです。『私』という存在は、覚醒状態の肉体と、夢見状態の微細体(サトル ボディ)と、熟睡状態の原因体(コーザル ボディ)のすべての中に存在し続けます。それは、3つのすべての状態を通じて存在し続けるのです。これら3つの状態に浸透している唯一無二の存在(神)が、『私』つまり『アハム』なのです。
私が、ゴーカクや、スダルシャンや、チャクラヴァルティに、あなたは誰かと尋ねれば、いずれの場合も『私』という答えが返ってきます。すべての人が、『私』『私』『私』と答えます。『私』は、万人のうちに存在し、万人の核心をなしています。『ガヤトリー マントラ』はブッディ(知性)、すなわち思考機能を照らす太陽の光輝を呼び起こすことにより、無知を根絶するのを助けます。この光輝こそが『個別化された自己』と『ブラフマン(宇宙的自己)』との一体性を顕現させるのです。
1983年1月1日 プラシャンティ ニラヤム
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