ヴィシュヌスマラナム(神を憶念すること)御言葉1

9月のサーダナキャンプで、サイユースが9つの帰依プログラムの中から「ヴィシュヌスマラナム(神を憶念すること)」の担当になりました。このプログラムに向けて、御言葉をアップするなど、学習していきたいと思います。

御言葉

「シュラヴァナム(傾聴)、キールタナム(神の栄光を歌うこと)、ヴィシュヌ・スマラナム(神を憶念すること)、パーダ・セーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(神を崇敬すること)、アルチャナム(神仏の像を礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(神の親しい友人となること)、アートマ ニヴェーダナム(真我への全託)は九つの信愛の形式です。」
2009年7月6日・場所:プラシャーンティ ニラヤム、サイ クルワントホール
グルプールニマー祭前夜の御講話

ヴィシュヌ・スマラナム(神を憶念すること)とはどのようなバクティのことでしょうか?
また、人が神の御名を繰り返し唱えても、何の変容も起こらないことがあるのはなぜでしょうか?
バガヴァンババ様は神を憶念すること、つまり神を深く思い、絶えず忘れないことについてこのようなエピソードを教えてくださっています。

「神の御名は人間の誕生の基盤です。鳥や動物でさえ、たった一度神の御名を聞くだけで、人としての生を得ることができます。一方で、人が神の御名を繰り返し唱えても、人に何の変容も起こらないのはなぜでしょうか? それは、今の人は愛を込めずに機械的に神の御名を唱えているからです。人々の中には、動く心(マインド)でバジャンを歌っている人もいます。そのような人は始終あちこちをきょろきょろしています。その心は歌い手のシュルティ(曲の節〔ふし〕)やラーガ(旋律)が正しいかどうかを見ることに従事しています。いくら神の御名を唱えても、そのような人々に変容は起こりません。

サタタム ヨーギナハ
(永続するヨーガの境地に達せよ)

もし、たった一度でも完全に集中して神を想ったなら、そのことは私たちの中に大きな変化をもたらします。1人の歌い手がバジャンを歌っている時、他の歌い手はずっと次にどのバジャンを歌おうかと考えています。神に心を集中させずに神の御名を唱えているから、何の変容ももたらされないのです。とはいえ、どのようなやり方で神の御名を唱えても、ある程度の純粋さは得られます。その純粋さは他の人々には見えません。本人だけが、自分の内面で起こった変化としてその純粋さを体験することができます。それゆえ、神の御名がハート心に刻み込まれるよう、人は絶えず神の御名を唱えているべきです。

皆さんは自分の仕事をすべて果たしているかもしれません。しかし、何を行おうとも、何を話そうとも、それは神のものであるという気持ちを常にもっているべきです。そうすれば、皆さんの生活は清められます。-SAI BABA」

2007年11月13日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワント ホール
アカンダバジャンにおける御講話より

※おく‐ねん【憶念/臆念】 の意味
深く思い、絶えず忘れないこと。
出典:デジタル大辞泉

2017年08月05日|キャンプ:2017camp